『天気の子』〜2010年代のセカイ系 ハッピーエンドのその先へ〜

『天気の子』が地上波で放送されたということで、評価が割れたであろう前作『天気の子』に関する雑記。内容は以前書いていたブログ記事の焼き直し。

なお、『天気の子』は映画館で1回観ただけで今回のテレビ放送も見ていないので、本稿の内容もガバガバ。
それから、『君の名は。』と『天気の子』に関するネタバレがあるので注意。

それでは、本題へ。



『天気の子』以前の新海誠氏について

『君の名は。』より前

『君の名は。』の大ヒットにより日本中に知れ渡ったであろう新海誠監督だが、おそらくそれ以前は"オタクの間で少し有名な映画監督"ぐらいの立ち位置であったように思われる。

非オタクでも、テレビで大成建設やZ会のcmを見たことのある人はそれなりにいただろうが、新海誠の名前まで知っている人はさほど多くなかったはずだ。

そして、新海誠といえば、美しい背景に加えて、一見すると到底ハッピーエンドとは言い難い、ともすれば"鬱アニメ"に分類されるようなビターエンドが特徴だった。
特に『秒速5センチメートル』は、その鮮烈さゆえに根強いファンを有している。

このビターエンドは『彼女と彼女の猫』(と『星を追う子ども』)を除くほぼ全ての作品に当てはまるものであり、『君の名は。』の前作である『言の葉の庭』においてもそれは変わらない。

『君の名は。』を観にいった者の中には、このビターエンドを期待して映画館に足を運んだ者も少なからずいただろう(かく言う私もその1人だ)。

『君の名は。』の衝撃

ところが、『君の名は。』は、誰もが認める超絶ハッピーエンドで幕を閉じる。
同作が初新海誠作品の人にとっては、謂わば王道的なボーイミーツガールのハッピーエンドということで、全く違和感はなかっただろう。

一方で、他の新海誠作品を見たことのある人、特に『秒速5センチメートル』を知っていた人にとっては、かなり衝撃的な終わり方だったはずだ。
なんといっても、『秒速』ですれ違ったまま終わった二人(勿論この二人と本作の二人は別人だが)が、無事再会を果たしてしまったのである。

『言の葉の庭』からの3年間に何があったのかという感じだが、これだけであれば、「新海誠が無事"脱童貞"した」(新海誠作品は"童貞臭い"と評されることがある)ということで話は単純だった。

しかし、『君の名は。』で見事にオタクを"欺いた"新海誠は、今度はそれにより獲得したはずの一般客を"欺く"ことになる。

※念のため書いておくと、“脱童貞"だの"欺いた"だのというのは一視聴者としての一方的かつ勝手な感想であって、新海誠監督ご本人は至極真面目に作品を作っておられるはずである。

『天気の子』の評価

『天気の子』の上映当時、同作についてTwitter上でこのような感想が見られた。

『天気の子』はゼロ年代エロゲ。

そもそもゼロ年代(2000年代)のエロゲについて詳しいわけではないので、この感想の当否についてはさておき、この感想には『天気の子』の評価が分かれたであろう理由が詰まっているように思われる。

『天気の子』が「ゼロ年代のエロゲ」とはどういうことか

『天気の子』がゼロ年代のエロゲと評される最大の要因は、『天気の子』が明らかにセカイ系の作品であることにあると思われる。

「セカイ系」という概念自体が漠然としたものであり、厳密な定義などはおそらく無い。それぞれが自分がセカイ系だと思うものをセカイ系と呼んでいる節がある。
僕の中での理解では、ざっくり言うと「彼女を助けると世界は滅びるけれど、世界と彼女のどっちを選ぶ?」という話がセカイ系だ。
具体的な作品で言うと、『イリヤの空、UFOの夏』や『最終兵器彼女』などのイメージで、新海誠作品である『ほしのこえ』もセカイ系に分類される。

※『君の名は。』もセカイ系らしいのだが、僕はあまり"セカイ系らしさ"を感じなかった。同作の場合、三葉を助けなければ世界(宮森町)が救われるという関係にはないので。

セカイ系は2000年代に流行し、その性質上エロゲにおいてよく見られる物語類型だったようだ。一方で、セカイ系は近年ほとんど見られない。具体的なデータは無いが、多分そう。
セカイ系では、主人公とヒロインの関係というミクロな問題が直ちに世界の危機というマクロな問題に結びつくが、近頃の作品にセカイ系に類するものがあるとしても、マクロレベルの規模が小さい、あるいは悲壮感が少ない/無いというイメージがある。

ということで、近年珍しい露骨なセカイ系というジャンルに、一部の人間に「画面に選択肢が見えた」と言わしめるほどのノベルゲーム的な展開や、やや寒いセリフ回し、新海誠作品の"童貞臭さ"が合わさって、往年のエロゲーマー達に「ゼロ年代のエロゲ」という感想を与えたのだと思われる。

結局、『君の名は。』を大衆向け作品に作り上げた新海誠監督は、次作『天気の子』をゴリゴリのオタク向け作品に仕上げてしまったのだ。

※なお、これについても、新海誠氏自身がオタク向けに作ったわけではなく、監督としては一般人にこそ見せたかったのではないかという気はする。

話は逸れるが、相変わらず風景描写は秀逸だった。やられたと思ったのが、冒頭で出てくるバニラカー。あれはズルい。
新宿だか渋谷だかに行ったことがある人は分かると思うが、あれで一気に現実の東京とリンクした。

謎の最終章

とまあ結果としてターゲット層がズレてしまったという問題はあったのだが、それだけなら『天気の子』の評価がそこまで割れることは無かったと思われる。
少なくとも「『君の名は。』ほどではないけれど良かったね」ぐらいの感想には落ち着いていたはずだ。

『天気の子』を(人によっては)意味不明な作品にしてしまった最大の要因は、2時間ある映画の最終章だろう。
そう、東京が水没して以降のシーンである。

物語としての最大の見せ場は、帆高が陽菜を助けに行くシーンであり、この最終章自体は文字通りエピローグだ。映画館でこのシーンを観た際に「これ要る?」と思った人も多くいるだろう。
それでも、この最終章こそが本作の最大の成果であり、核心部と言っても過言ではない。

セカイ系における選択

最終章の素晴らしさを語る前に、セカイ系としての帆高の選択について言及する必要がある。

物語の流れとしては、

  1. 陽菜が天気を変えた代償として人柱化

  2. 陽菜を帆高が助け出した結果として、天気がおかしくなる

  3. 雨が降り続けて東京水没

という感じだ。これを見れば分かる通り、帆高は世界より彼女を選択した

本作を評価している人の多くは、おそらくこの選択自体を評価している。
しかしながら、僕としては、現代においてセカイ系をやる場合、世界を選ぶという選択はほぼないのではないかと思っている。

ゼロ年代のセカイ系

おそらく、セカイ系が登場した当時は「世界か彼女か」という選択自体に主眼が置かれていた。
あくまでもイメージだが、ゼロ年代のセカイ系では、基本的に世界が選ばれる。というか、世界を選ぶ作品こそがセカイ系だった。

これはおそらく当時の世相が関係していて、実態はさておき、シリアス系や暗い感じのアニメが量産されていたイメージがある。バブル崩壊後の「失われた20年」というやつだ。
そして同時に、ダメになってしまった世界を直したい・直さなければならないという意識もあった。だからこそ、彼女が載せられた天秤のもう片方には世界があって、その重さは、彼女と同じかそれ以上のものだった。
「彼女か世界か」という二択が非常に重い選択として意味を持っていたのである。

10年代のセカイ系

しかし、10年代も終わる上映当時(『天気の子』公開は2019年)においては、この二択は最早意味をなさないレベルで軽いものになっていたと思われる。
だって、「なんで彼女を犠牲にしてまで世界なんか救わなきゃいけないのさ?」って話だ。
個人が重くなると同時に世界が軽くなった結果、わざわざヒロインを犠牲にしてまで世界を選ぶインセンティブはどこにも無くなったのだ。

これは、世界が良くなって問題が解決したということではなくて、壊れた世界が常態化して慣れてしまったり、もうどうしようもないところまで来てしまったというか、ポイントオブノーリターンを越えて、諦めから生まれる楽観みたいなものが広がる時代になったのだ。
環境問題も経済も、良くはないけれど、まあいっか、みたいな。もうどうしようもないし、みたいな。さとり世代なんて言葉もあるが、そういう時代だ。
だから、「今更世界なんか救ってどうするの?」という話になる。そもそも、世界を救おうという気がない。
そうすると、世界か彼女かという二択は最早意味をなさない。世界を救う気がないなら、答えは一つしかないのだから。

『天気の子』でも、「帆高が世界と陽菜のどちらを選択するかで迷う」なんてシーンはなかった(はず)。陽菜は世界に対する責任を感じていたが、帆高は最初から陽菜を助けることしか頭になかった。

ということで、帆高がヒロインを選んだことについては、妥当な選択だろう。

……と思っていたのだが、他の方の記事を読んでいると、本作についての感想・批評では帆高の選択自体を褒めているものが圧倒的に多いように思われる(というかほぼ全部そこ)。

「世界より彼女なんていうのは当たり前」というのは"今どきの若者"たる僕の感覚なのだが、もしこれが間違っていたら、「この国もまだ捨てたもんじゃないね」ということで話が落ち着く。

セカイ系の新たな問題

ここまでだと、『天気の子』はセカイ系として当然の結末を迎えた作品ということで話が終わってしまうのだが、世界と彼女の選択自体に重さが無くなったとしても、まだ問題が残っている。

それは、選択の代償とどう向き合うか、つまり、(彼女を選択した後)世界を壊した苦悩/責任とどう向き合うかその世界でどう生きていくのか、ということだ。

選択自体に悩むという問題からは解放されたが、彼女を選択する結果として世界の滅亡(本作では東京の水没)という結果はついてくる。
選択の答えが当然のものであるとしても、そこから生じる苦悩までが解決する訳ではない。世界が壊れたという事実は変わらないのだから。
そしてこれは、彼女を諦める代わりに世界を救っていたかつてのセカイ系においては、基本的に生じなかった問題でもある。かつてのセカイ系では、主人公は彼女一人の喪失と向き合えばよかったのだから。

前述の通り、最近はセカイ系自体がなかなか見られないので、現代におけるセカイ系の問題に答えた作品というのは、僕の知る限りなかった。

そして、この問題に応えた作品こそが、『天気の子』なのだ。

「僕たちは、きっと大丈夫」

『天気の子』最終章において、陽菜を助けた後、島に帰って高校を卒業した帆高は、再び東京(本州)に戻ってくる。
※厳密に言えば、帆高がいた島も東京ではある。

そこで須賀(ライターのおじさん)と再開した彼は「自分たちが世界を変えてしまった」と言うが、おじさんは「世界は元から狂っていた。君たちが世界を変えたわけではない」と言い聞かせる。
一介の高校生に世界を変えられるわけなんてないじゃん、と。思い上がりも甚だしい、と。
世界を変えてしまったという重荷を背負った主人公に対する言葉としては、仮におじさんが慰めるつもりで言っているのだとしても、妥当なものだろう(語調的には一蹴している感じだったが)。
ここで帆高がおじさんの言葉を受け入れて終わってもよかったのだが、まだこの作品は終わらない。
『天気の子』の真打とでも言うべき名シーンは、最終章のラストに出てくる。
それは、ついに陽菜と再開を果たした帆高のセリフだ。
彼女の姿を見た帆高は、「僕たちは世界を変えたんだ」「僕は選んだんだ、あの人を、この世界で生きていくことを」と再認識した上で、彼女にこう告げる。

「僕たちはきっと、大丈夫だ」

このセリフで本編は終わり、エンドロールに突入する。

人によってはやや唐突な終わり方に見えただろうし、「いやいや、東京水没してるし全然大丈夫じゃないだろ」と思ったかもしれない。

しかし、このセリフこそが上記の問題に対する答えなのである。

「大丈夫」が意味するもの

冷静に考えたら、「大丈夫」なんていうのは当たり前のことだ。
(本作について言えば、)陽菜も帆高もちゃんと生きているし、世界が狂ったと言っても、東京がちょっと水没したぐらいで、人類が滅びたわけじゃない。
「大丈夫」じゃなかった場合には、主人公は死んでいるし人類も滅びているので、主人公が世界を壊した責任について悩むなんてことは物理的に不可能だ。
メタ的な視点にはなってしまうが、物語が続いている限りにおいて、「大丈夫」なのである。

「大丈夫」というのは、「僕たちは生きているんだから、大丈夫」ということに他ならない。
「大丈夫」というのは、結局のところ生の肯定だ。そして、世界を壊した張本人が「僕たちはきっと、大丈夫だ」と言い切った、ということにこそ価値がある。「大丈夫」だと思えたなら、世界を壊した責任を負ってでも壊れた世界で彼等は生きていけるだろう。
「大丈夫」と言えてしまえば、あとはもう無敵だ。日本が水没しようが、地球が滅びようが、「大丈夫」なんだから。

ちなみに、同じ新海誠作品である『雲のむこう、約束の場所』(2004年公開)ラストの独白で、

約束の場所を無くした世界で、それでも、これから、僕たちは生き始める。

というセリフがある。これと『天気の子』の「大丈夫」は全くもって別物だ。
『雲のむこう、約束の場所』は「こんな世界でも僕たちは生きていくしかない」という、仕方ないけどやらなきゃいけない、みたいな暗さがある。「全然大丈夫じゃないけれど、生きていくしかないんだ」みたいな感じだ。

これに対し、『天気の子』は明るく前向きな「大丈夫」だ。「僕たちは生きているしなんとかなるっしょ」という「大丈夫」なのだ。


というわけで、世界がどうであろうと「大丈夫」だという肯定的な気持ちを持つ。前向きに生きていく。それこそが、2019年におけるセカイ系の問題に対する回答である。

というか、今の人類の状況ではこうするしかない。卓越した技術があるわけでもなく、持っているのは中途半端な力だけ。問題解決には不十分。あとは心次第。

なお、『天気の子』が30年後に公開されていた場合、スーパーテクノロジーで天候を制御するので、東京は水没しない。
10年前なすすべなく立ち止まっていた主人公は、今や前を向いて歩き出し、30年後には科学技術を手にバッサバッサと道を切り開いているわけである。

とまあこんな感じで、10年以上前に問題になったセカイ系を取り上げ、さらに現代のセカイ系の問題に答えを与えたという点で、『天気の子』は素晴らしい作品と言える。

最後に

正直、『天気の子』を観終わった直後は、スポンサー集めの為にわざと(『君の名は。』を)あのストーリーにしたのかと思ったほどだ。
流石にそれは言い過ぎだろうが、『君の名は。』の二人の再開も、今となっては「大丈夫」の為に必要だったと思える。
『君の名は。』で新海誠から離れた人には、是非『天気の子』を観てほしい。

『君の名は。』以降の作品については東日本大震災が大きく影響しているようで、『すずめの戸締り』についても、監督自身が小説版の後書きにおいてその旨を述べていた。
ただ、『君の名は。』の前作である『言の葉の庭』が2013年公開であり、『君の名は。』からの露骨なハッピーエンドへの変化を東日本大震災だけで理由付けるのはもう一押し足りない気がする。

『シン・エヴァンゲリヲン』の庵野監督といい、作品以上にそうした監督自身の変化の理由こそが気になる部分ではある。勝手に僕が変わったと思っているだけかもしれないが……

因みに新海誠監督も既婚なのだが、結婚の時期までは分からなかった。娘さんの年齢から考えると『言の葉の庭』の時点では既に結婚していたようなので結婚自体は変化の理由では無いだろう。

それから、『君の名は。』と『秒速5センチメートル』、『天気の子』と『雲のむこう、約束の場所』と、最近の新海誠作品は微妙に過去作と対応関係にあるようで、新作『すずめの戸締り』は『星を追う子ども』に対応していると思われる。
同作もかなり評価が割れている作品ではあるが、興味のある方は見ておくと良いかもしれない。

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