きっと何者にもなれない僕等は

最近ホットな「どう生きるか」という話は、要するに「きっと何者にもなれない僕等はどうするのか」という話でもある。

「きっと何者にもなれない」というのは『輪るピングドラム』の「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」というセリフから取ったものだが、ピングドラムについては(そもそもちゃんと見ていないので)割愛。

「何者にもなれない」というのは、「無価値な存在でしかない」ということで、大袈裟な言い方をすれば、「(社会にとって/世界にとって)いてもいなくても変わらない」という話だ。

なお、ここでの「何者にもなれない」というのはあくまでもマクロレベルでの話で、ミクロレベルで「何者にもなれない」という話は、本稿では取り上げない。おそらくミクロレベルの話は、「頑張れ」というところに落ち着いてしまうので……

「きっと何者にもなれない僕等はどうするのか」という問題は、

①「何者にもなれない」という現実を受け入れる
②    何者にもなれなくても生きていく

という2段階に分解できる。

※注意
以下では、「何者か」になれた一握りの人々のことは特に考えていないです。それから、本稿はあくまでも筆者の体験に基づくもので、感じ方等は生育環境次第で大分異なると思われるので、その点にはご留意いただきたい。

「何者にもなれない」という現実を受け入れる


大人になるというのは「自分がこの世界の主人公ではない」ことを受け入れるということだろう。

勿論、生まれた時点で既に、マクロレベルでの価値がないという実態は存在する。しかしながら、それを認識するまでにはかなり時間を要する。

成長するにつれて、知っている世界が広がり、自分の価値は相対的に低下していく。「自分は世界でこんなにも価値が無いんだ」という現実を知っていく。

それを受け入れるのは、おそらく簡単なことではなくて、その傾向は、それまで (少なくとも主観的には)「何者か」でいられた層には特に顕著であると思われる。

個人的な話

せっかくなので自分自身の話をすると、学業が価値基準の中心だったコミュニティにおいて"中途半端に頭の良かった"(という表現を敢えてするが)筆者が真剣にこの問題に向き合ったのは、高校生の頃だった。

当時、勿論自分の能力は信じていて、「自分が特別な存在ではない」ということに薄々気付いていた一方で、「俺はもっとやれるはずなんだ」みたいな気持ちが常にあった。
そんな中、高2の時に文転という選択をした。
これについて、当時仲の良かった知り合いとのやり取りで、「遠くの理想より目の前の幸福」という表現をしている。当時の自分としては、これを一つの転機にしたつもりだった。
まあ文転については、色々言い訳はあるものの、一言で言えば「逃げた」ということになってしまうが……

未だに「俺はもっとやれる」みたいな気持ちは多少あるし、完全に割り切れたと言えば嘘になってしまうが、あれが人生の転換点にはなっていると思う。

「自分らしさ」論へ

話を戻すが、「何者かになれる」人はごく僅かで(しかもそれは単に才能や努力だけで決するものではない)、ほとんどの人にとって、「何者にもなれない」現実を受け入れる瞬間はどこかでやってくる。その現実を受け入れるまでには、何者かになろうともがく期間がある場合もあるだろう。

「1が0だったことに気付く」のと「0を1にしようとする」のとでは少し違うのだが、こうした苦悩を背景にした作品として、「第二世代の物語」(と筆者が勝手に呼んでいるもの)があり、『ラブライブ!サンシャイン!』や『ブレイブウィッチーズ』等がこれにあたる。
『ブレイブウィッチーズ』というのは『ストライクウィッチーズ』というメディアミックス作品の一部で、筆者はこのシリーズがかなり好きなのだが、それはさておき。

特に『ラブライブ!サンシャイン!』12話の主人公のセリフは素晴らしく、当時視聴していた高校生の僕は「やられた」と思ったものだ。

私ね、分かった気がする。μ’sの何がすごかったのか。たぶん比べたらダメなんだよ。追いかけちゃダメなんだよ。μ’sも、ラブライブも輝きも。

ラブライブ!サンシャイン!12話 

μ'sというのは系列作品に登場する伝説的学生アイドルグループで、上記のセリフは、「何者か」になったμ'sを追いかけていた主人公が「μ'sにはなれないんだ」ということを他のメンバーに語るシーン。

これはまさしく、凡庸な(という評価は誤りだが)主人公が「μ's(=何者か)にはなれない」ことを受け入れたシーンと言える。

と言いたいところなのだが、実はこのセリフには続きがあって、

μ’sみたいに輝くってことはμ’sの背中を追いかけることじゃない。
自由に走るってことなんじゃないかな。
全身全霊!何にも捕らわれずに!自分たちの気持ちに従って!

ラブライブ!サンシャイン! 12話

ということで、「個性」とか「自分らしさ」というところに繋がる。
なお、『ラブライブ!サンシャイン!』については、2期以降は見ていないので話がどうなったのかは知らない。

少し前から「自分らしさ」とか「個性」とか言われるようになっているのはおそらくこれで、「きっと何者にもなれない」という問題に対する答えとして、「君だけの価値を見つけよう/作り出そう!」という話が出てくる。

でもこれって、凄く大変なことじゃないですか?
だって、唯一無二の価値を身に付けようって話ですよ。そんなことはできるわけがない。

「本当の自分」の登場

ということで、「自分らしさ」論はさらに一歩先に進む。
それが、現在流行中の「本当の自分」論だ。

「本当の自分」論は、「何者にもなれないんじゃなくて、僕等は最初から”何者か”(=僕等自身)なんだ!」という話で、要するに「個人には存在自体に普遍的な価値がある」という価値観を謳っている。

最近SNS等でやたらと「自分らしく」とか「ありのまま」みたいな言葉が多いのは、おそらくこの「本当の自分」論に依拠しているもので、「自分らしさ」という言葉こそ前述の「自分らしさ」論と同じものの、その意味は変容していて、既に自分の内にある「本当の自分」という価値を磨いていこう、みたいなニュアンスのように感じる。

「きっと何者にもなれない」あるいは「既に何者でもない」ことに気付いた人々は、なんとかそこから逃れようとして、「僕等は本当は価値ある存在なんだ」と現実逃避価値観の転換を始めたわけです。

自己肯定感?

同じく最近よく見る言葉として、「自己肯定感」がある。
日垢も自己肯定感が低い人々で溢れているし。

「自己肯定感が低い」というのが「自分なんか(マクロレベルで)価値が無いんだ」という意味なら、それは「何者にもなれない」という現実を受け入れられたということなので、是非本稿の続きを読んでね!という話だし、「(ミクロレベルで)価値が無いんだ」という意味なら、機会があれば別記事で……ということになるのだが、言葉の使われ方を見ていると、「無価値な人間でもいいんだ」という開き直りが足りないということではなさそうに思われる。

寧ろ、「(自分には本当は価値があるのに)それを認められないんだ」とか、さらに言えば、「(社会が)自分の価値を”適正に”評価してくれないんだ」というニュアンスをどことなく感じる。
本質的に自らに価値があることを疑っている感じはあまり受けないので、「何者にもなれない」という実在そのものに対する苦悩とは一線を画している気もするのだが、当事者ではないので、その辺りの心境はよく分からない。

もしかしたら、生来的に価値があるという考え方は意外と浸透しているのかもしれない。


「本当の自分」でいいのか

「本当の自分」論で「何者にもなれない」問題は解決したのかというと、そんなことはない。

だって、「個人には生来的に普遍的な価値がある」なんていう主張は、明らかに嘘だ。
それは理想としてはそうなのかもしれないが、現実にはそんなことはない。

例えば、貴方にとって満員電車で隣に立っているおじさんには何の価値もないだろう。僕だって、赤の他人なんかどうでもいいし、その人の存在に特に価値は感じない。

そもそも、「本当の自分」って何だよって話だ。「自分らしさ」だって、どこまで他者と差別化された「自分らしさ」を有しているのか/獲得できるのかは大いに疑問が残る。

それに、ありのままとか本当の自分なら価値があると思っているなら、それはあまりにも傲慢な考えだと思うのだが。

結局、ほとんどの人間は無価値な存在でしかない。みんなモブだし、極論を言えば(マクロレベルで)存在価値のないゴミだ。
貴方の代わりはいくらでもいる。

どう足掻いたところで、「何者にもなれない」という現実を覆すことはできない。


何者にもなれなくても生きていく

結局、僕等は何者にもなれない。

「価値ある存在じゃなきゃ生きていてはいけない」なんてことはないし、「何者にもなれない」からと言って気にする必要はないのだが、そう簡単に割り切ることは難しい。

それではどうするのかというと、以下の3つの道が考えられる。

⑴ 日々の忙しさに追われる中で、その問題に向き合う暇すらない
⑵ 楽しみを作る
⑶ ミクロレベルでの価値を見出す

⑴は割と多いパターンの気がする。仕事が忙しければ、多分「何者にもなれない」なんて問題に向き合っている余裕はあまりない。
ただ、好き好んでこの道を選ぶ人もあまりいないだろうし、問題の先延ばしでしかないので、下2つについて。

楽しみを作る

人生なんて、楽しければ、辛さを忘れられれば、それでいいじゃんという話。
それは、趣味でも、アニメでも、YouTubeでも、なんでもいい。仕事のやりがいなんていうのも、この延長線上にあるのかもしれない。
受動的になってしまうと脆い感じがするので、できれば趣味みたいに積極的に打ち込めるものがあると良さそうな感じはする。
多少行動は求められるが、一番手軽な選択肢だと思う。

ミクロレベルでの価値を見出す

マクロレベルでの価値が無いことは分かったけれど、ミクロレベルでの価値が否定されたわけではない。

そこで、「僕等は世界にとっては価値のない存在だけれど、"誰か"にとっての価値ある存在にはなれるんだ!」
というのが、一つの答えになる。

普遍的な価値はないけれど、個人的な関係の中での価値は作り出せる。

そして、”誰か”というのは色々あると思うが、その典型が親友であったり恋人であったりする。
つまり、「友達を作ろう」とか「恋人を作ろう」といういつもの話に繋がる。筆者が常々結婚したいと言っているのはこれです。

ただ、この議論は、(残念ながらそうでないケースも多々あるが)「親にとって君は大切な息子/娘なんだよ」という視点が欠落している感じはある。
まあ、将来に目を向けていかなければならないので。


本当に諦めきれたのか

ということで、「趣味を作ろう!」と「結婚しよう!」というのが目下の目標になるわけだが、それで万事解決かというと、やはりそんなことはないように思われる。

ミクロレベルの幸せ(=結婚)すら叶えられるか分からないというのは、以前記事に書いた通りなのだが、仮に結婚できたところで、この「何者かになりたい」という渇望が癒えることは無いだろう。

文転した時の「遠くの理想より目の前の幸福」というのは、ミクロレベルでの価値を作り出すということを含意していたし、大学に入ってからしばらくは資格勉強をしていたこともあり、当面やるべきことがあったお陰で、特に問題はなかった。

ただ、いざ自分が社会に出て、一息つけるようになって、理系に進んだ高校時代の知人が曲がりなりにも自分のやりたいことをしている(ように見えた)時に、「本当にこれで良かったのだろうか」と思ってしまったのだ。

これは、社会貢献がしたいみたいな高尚な理念ではないし、誰かに認められたいみたいなものでもなく、もっと自己本位な欲求で、「もっとできるはずだ」みたいな感覚を、いつまでも捨てきれずにいる。

こんな下らないことで悩んでいること自体が、自分が成長していない証なのだが。

それでは。


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