わたしの一部だった異物
突然ですが、歯を抜く、ときいて、あなたは何を思い浮かべますか?
わたしの場合は、痛い、とか、絶対したくない、という感情よりも、最近見返した「レ・ミゼラブル」の娘のために身体を売ることになった女の人のことが真っ先に頭に浮かぶんです、長い髪を剃られ、奥歯を抜かれ彼女自身が子供のためにどんどん堕ちていくシーン、見るに耐えない姿になった彼女はすっかり痩せこけたその頬に、もうひとつ心臓が宿ったかと錯覚するほど脈打つその痛みを、静かに手を当てるだけで耐えていたんでしょう、いまこれを書いているわたしが、真ん中から数えて4番目の左の歯を抜いてそうなっているのです、まぁこちらの場合は完全に自己都合なんやけど。
桜も満開を過ぎた4月の中旬あたりから、歯科矯正をはじめました、もともと人より顎が小さいために、生え尽くした永久歯たちのその並び方は、整頓されていない古本屋の棚のようにガタガタで、写真に映ると、なんとなく歯の並びが目立って気になるし、昔から親にも「いつ歯科矯正するん?」とむしろ催促されるように勧められ、にもかかわらずその一方で痛みに耐え切れるのかと勧めた母に覚悟のほどを試され、結局伸ばし伸ばしにしてきたこの問題を、実は今世の中を支配する勢いで習慣化したコロナ禍のマスクが、思いもよらず決断を後押しすることとなったのです。
近所の評判のある歯医者を訪れ、顎の大きさを測り、歯形を取って、さらっと聞くには理解しづらいカウンセリングを真面目に聞いた結果、わたしの顎の大きさでは上下左右、真ん中から数えて4番目の歯たち、計4本を抜歯をしないと整いづらい、ということが判明、診断を聞いた後は診察椅子の上でしばらくぼんやりしてしまった、だって虫歯によって死んで使えない歯ならまだしも、抜歯対象はなんの問題もない、ただそこにいることで矯正の邪魔になりかねない真ん中から数えた4番目の歯たち、それらをただ「綺麗になりたい」というみえない、でも目指す未来のために抜こうとしている、その行為がなんだか自分勝手な理由に思えて、それがものすごく恥ずかしく感じて、いままで切望していたはずの治療が、ここになって急に覚悟の度合いを問うてきたのです、成功するかわからない将来像、失敗したら目も当てられない落胆、想像するだけでもう頭の中はぐちゃぐちゃになるのです。
抜歯しないで出来ないんですか、と訊いて、先生は数値を引っ張り出してわたしにもう一度説明してくれました、「抜歯をするかどうかの基準について、あなたの顎はこの数値を大きく下回ってます、つまりそれだけ顎が小さくて、いま生えている本数では難しいんです」。
勘違いしないでほしいのは、わたしはだだをこねてるわけでもないし、先生も無理矢理わたしに抜歯の判断をさせたわけではない、でも、判断というのは、案外その瞬間は無意識の領域にいるから実感のないまま通り過ぎていくだけで、問題はその後に心が追いついたかのように迷いが沸々とででくるもの、だから、だから、その日は抜いてしまう歯のことを想って、風呂場でめそめそと泣いてしまったのです。
いよいよ最初の歯を抜く日、施術直前、ビニールの手袋をつけた先生に尋ねた、抜いた歯を保存する方法ってないんですか、「んー、ないこともないんやけど」、教えてください、「そもそも対象の歯を抜くときは残す歯を傷つけないために、あらかじめ細く削る工程があって、それから抜いていくのよね、だから抜く時点で歯はだいぶ細くなってるのよ」、はい、「だいたい歯を抜いてしまった時点で、人間の口ってのはたとえそれまでついてたものでも、一定の時間経てば異物として認識するのね、だからたとえ自分の抜いた歯であったとしても、それは次はめようとしても異物だから受け入れられないのよね」、はい、「どうしても、ってことならトゥースバンクってのはあるけどね」、なんですかそれ、「特殊な液体につけておけば、数十年歯を保てるってやつ。むっちゃ年会費高いんやけど」、そうですか。
それから歯茎に麻酔の注射が当てられ、ちょっとちくりとしたが、そのあとはまるでほおの感覚が月がかけてしまったようにそこだけぽっかりとなくなってしまい、うぃーんとなんとも聞いてられない機械音ののち、あっという間に最初の歯は抜かれてしまいました、空白になった歯茎にガーゼを詰め、血の止まり具合を確認した先生が、先ほどまでわたしの一部だった異物を見せてきたのです。
「抜いた歯はどうします?持って帰ります?」に、わたしはほおをさすりながら、小さく頷きました。
そして今、自宅の机に全部で4つ、抜いた歯が保管されています、トゥースバンクには登録してないけど、わたしの一部だった彼らを、まだゴミ箱に簡単に入れる気にはなんだかならないのです。上の歯にワイヤーがついてからも、食事するたびに違和感の連続で、人生で初めて食べることがストレスに感じました、しかし慣れというものは恐ろしいもので、4ヶ月たった今になって、ようやく気にせずにものを食べられるようになってきたので、明日下の歯にワイヤーをつけることになるのです、しばらくは口内炎と滑舌と食欲との戦いの日々になりそうです。
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