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時間

ある割と小規模なスーパーでのことでした。私は陳列されている納豆のパックを手に取り、数字をさがしました。ここまでは鍛錬を積んだ職人の如く無駄のない動き、いや、実に卑しい癖となっていました。

「2021.9.16」。もう9月かと思い知らされたここ数日でしたが、9月の折り返しはすぐそこまで来ていることをさらに思い知らされ、私は俄かに興が覚めました。

賞味期限はいつも時間の経過とそれを浪費しているというあの忌々しい警告を突きつけてくるのです。


昔から浪費癖がありました。体力やお金(お金はましになったほうですが…)、ことに時間の浪費癖はひどいものです。

朝は、あと1時間、あと10分と何度も起きては寝るを繰り返し、夜も同じように、あと1時間、あと30分と怠惰な間延びに楽しみを、いや、苦しみを嘗めているのです。

いつしか、自分の力ではどうにもできない「時間という他人」の機嫌をうかがい、オロオロして生きなければならなくなっていました。

ふと私は時計から視線を外しました。

本棚を見ました。びっしりに詰まった漫画と、高さの違う小説や専門書が各々右側に寄りかかっているように立っているのが見えます。

その次はテレビの側に置いてあるゲーム機、埃を少し被っているので後で掃除が必要だとわかりました。

そして目の前に置いてあるスマホ。

すべて笑面夜叉のように思えました。それらは表向きでは私をとことん楽しませている気になっておいて、途端に本性を出現させ、虚無感、絶望のしっぺ返しを見舞ってくるのではないか、そう思えるのです。その吝嗇ゆえ私は、わぁ!と叫び出したくなりました。

つまり、娯楽というものに何の疑念も抱かずに飛びつけなくなったということです。


私は煮詰まってしまったので、散歩に出かけることにしました。いつも散歩には何か報酬をつけないと体を外に投げ出すことすら億劫になってしまうので、アイスクリィムを買うことを報酬にし、コンヴィニエンスストアを目掛けて歩き始めました。

コンヴィニエンスストアに着くと、買うものが決まっていたので、時計の秒針のように滞ることなくメモ帳を見つけ、アイスを探しました。

すると3人組の女がどうやらどのアイスを買うか選んでいる途中のようでした。割って入るわけにもいかないので、私は買うはずもない惣菜コーナーを一通り眺めた後もう一度向かうことにしました。

しかし、彼女らは一向に決めようともせず、かといって動こうともせずもはや往生していました。

嗚呼、時間。

「3人寄れば文殊の知恵」と言いますが、この人たちは誰ひとりとも惜しいとは微塵も思わないのだろうか。

しかし、そこで私はハッとしました。

私利私欲。途端に姿を見せた本性に私はため息をつき、またどこか恐ろしくさえ思えました。

時間ではなかったのです。自分だったのです。

時間の無駄を楽しみたい。

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