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老人と烏

 弘前公園の追手門通りはひっそりと静まり返っていた。九月の下旬、夕方のことであった。
 濠の並木はまだ紅葉を迎えるにはまだ早く、そのほとんどが緑で身を覆っている。無数に伸びている枝は取ってつけたように脆く見え、木に登り体を預ければすぐ折れ切ってしまいそうだった。自動車が忙しなく往来し音を鳴らすも、それも街の音として還元されるので恐れることもない。
 小さな子どもが心無しか白線を意識しながら舞っていたたが、何を言っているのかは聞き取れず、ある一種の動物の鳴き声として耳に入った。私も見真似て、線の上に佇み(たたずみ)、一音発した。その声は夕暮れの向こうまで木魂しそうだった。すると、近くにとまっていたハシボソガラスが「アァーッ!」と力強く鳴きだした。思わず私は吃驚した。木魂したのはその声だった。

 辺りを見回していると、一棟の建物が目に入った。私はその建築様式を何度も目にしたことがある。その在る場所を何と言ったか、確かある人は「日本橋」と呼んでいた。遠い記憶の話なのでさして覚えてはいなかった。木版に「青森銀行」と書いてあった。  
 私は首を傾げ、すぐさま気を引いた。それ以上のことは何もわからないからだ。実に「あいつはああ見えて頭がいいから気をつけろ」と吹聴する者が多いが、しかしながら、その文字があらわしているということ以上の意味はさすがにわからない。それよりも近くにある葉の落ちきった一木に留まりキョロキョロとあたりを見回すそのカラスのことが気になって仕様がない。
 東北と呼ばれるこの一帯特有の季節の肌寒さからか、背中の辺りにほんの僅かな不快感を覚えた。たまらず身震いをした。すると自分でも目視できる範囲の中にひらひらと黒い羽毛が舞った。何か不吉な予感がした。それは近くにいたそのカラスのものだった。私は首を傾げた。

 あるうたの詞に、「泣いてるか笑ってるか、それすら君にはわからない。」という一節があった。私にとって人の喜怒哀楽、ほか数多の感情というものにはさして理解が及ばないのだが、それは単に複雑怪奇、難解で晦渋であるからというのではなく、偏にわからないのである。実に奇妙な行動をとり、奇怪な表情をし、執拗なまでに回りくどい意思疎通をしている。場合に因れば、私どもにも備わっている欲や本能といったもっと生物的な、内在的な「機能」に対しても働きかけ、駆逐しようと危害を加えてくることもあるが、どうでもいいことでただ私は美味しいご飯を食べたいだけであり、それ以上欲することはない。
 老いた人がこちらをじっと眺めていたが何を思ってそうしているのか、よくわからなかった。
 しかしながら、自分の体の感覚、私の余命もざっとあと三四年(さんよねん)ほどだろうか。不思議と「老い」というものを感じないのである。いや、そもそも老いが一体何であるかもおそらく理解の外だ。
 それは単に私が白痴であるからだろう。


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