エゴイズム(エッセイ)

 私はその日、3つのエゴイズムを見た。市バスに乗っていた時のことである

1.母と2人の子

 私が利用するものは、右回りと左回りとで2つの経路がある。どちらがどうという変わりはなく、たまたまその日乗り合わせたのが左回りの経路であった。左回りであれば、住宅街を通るので、サラリーマンや子連れが多く利用するようだ。

 バスは始発の駅を出、3つ目のバス停にとまり、そこへ母と子ども2人が乗ってきた。子どものほうは6歳ぐらいの姉と3歳ぐらいの弟である。
 私は後部から一列前の右側の席に腰掛けていて、その一つ前に親子は落ち着こうとする。始めは子ども2人がその2席に座り、母親が私の隣の席へという分配であった。窓際にいた弟の坊主が駄々をこね始めた。

 「あんちゃん(姉の名)こっち来て」と言い、入れ替わろうとした。
 あんちゃんも幼いながら大した姉の意識があったので、素直に入れ替わった。
 しかし、それでも居心地を見出せなかったのか、違う席がいいと坊主は駄々をこねた。そして徐々に興奮し、泣きべそをかいてしまった。狭く閉じられたバスの車内を泣き声が木魂し往来した。私は心の中でまごついた。

 車内のアナウンスが流れた。

「前方の座席は優先席となっております。お年寄りの方、体に不自由を抱えている方、妊娠している方、お子様連れの方には優先して席をお譲りし、快適な車内にすることを心掛けましょう。」

 ほぼ満席の車内、母親と子ども2人、どれだけ2人乗りの席があっても割に合わないのだ。
 私は四方へ、どうか譲ってくれまいかと念を送ったが、活発な空気の振動に念は遮断されてしまい、エゴだけがそこに居合わせた人の数だけ存在したのであった。


2.中年の男

 ぐずっていた坊主は、一つ前に席を移した母親に抱き上げられやがて落ち着いた。同時に私の隣には中年の男が腰掛けた。
 この中年男、非常に厄介を働いたのだ。隣り合わせた私に対する無言の攻撃であった。
 何某か隣に座ることは甚だ問題ではなかった。

 「ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ…」

 私は本を読んでいたのだが、気を取られ横目で見ると、何やら襟元から糸くずを千切るような動作を何度も何度も、それは執拗に繰り返している。ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ、と幾度も音を立てていた。私は左目を閉じ、右目だけを以て活字を追うようにした。
 男の動作は一度やめたかと思った。しかし、頭やマスク越しの顔を掻いては再度襟元を
 「ぶちっ、ぶちっ、ぶちっ…」と引っ張った。

 先にぶち切れそうなのは私の堪忍袋の緒のほうであった。
 私は本を閉じ、仰いだ。そして左肘で無意識を装い故意に押した。しかし、全く以て効果がなく徒労であった。目を閉じると、随所の神経が研がれるだけでむしろ地獄へ向かってさいころをふっているに等しかった。私は後部に座る人に同情を乞うように仰いでは、ことさらに窓のほうを向いたりして牽制、抵抗をした。しかし、これも全く以て徒労。

 人間的に至近距離ではただでさえ過敏な神経にとってはただの拷問でしかなかった。まさにその男のエゴイズムを突きつけられ、先程の子どもの幼気な純粋さ、それを感受した感情が粉々に打ち砕かれたのである。


3.もう1人

 最寄りより一つ前の停留所でバスを降りた。何だか頭の左側だけが不自然に凝っているように思えた。
 乗車賃を払い終えたスマホの画面を見ると、金額のすぐ下に不在着信の通知があった。アルバイト先の店長だった。
 私は何だかおかしく思い笑いが込み上げてきて、人目を憚らず吹き出してしまいそうであった。

 あの幼気な子どもたち、6歳ぐらいの姉のほう、彼女はそんなエゴイズムの結集を何の気に留めず、自らの息を以て窓をキャンバスにし、自分の指と同じぐらいの大きさのハァトを描いていた。その芸術性とエゴイズムを私は称賛せずにはいられなかった。


#随筆 #エッセイ

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