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「中国残留邦人」という人たちが存在することも知りませんでした-1

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【 今日のトピック:中国残留邦人 】

タイトルのとおりです。「中国残留邦人」という存在を、今日はじめて知りました。

「中国残留邦人」の話は、満州事変~満州国建国に遡ります。

1931年(昭和6年)、石原莞爾の指揮のもと、関東軍は柳条湖事件を起こし、怒涛の勢いで、満州全土を支配下に置きます。そして、関東軍は、宣統帝溥儀を擁立し、満州国の建国を宣言します。

柳条湖事件が昭和6年の10月18日、関東軍が満州国建国を宣言したのが昭和7年3月1日、満州国建国を日本政府(犬養毅内閣)が認めたのが昭和7年3月12日、その後、満州国建国に慎重だった犬養毅が五一五事件で暗殺された後、6月14日に、衆議院も満州国建国承認を決議します。

この「満州国」は、国際的には承認されませんでした。「リットン調査団」という、有名なイギリスの調査団が、満州事変の検証報告書を国際連盟に提出しますが、その調査報告書を受け、国際連盟は、満州国を認めないとの決議を採択します。

しかし、大日本帝国は、この決議に反対し、そのまま、国際連盟を脱退することになりました。

日本は、満州国を認めないことに激おこだったわけです。とはいえ、リットン調査団の報告書は、日本側の主張を全く考慮しないようなシロモノではありませんでした。

当時の大日本帝国は、間違いなく、イギリス・フランス・アメリカ・ドイツ・ソ連と並ぶ列強の1つで、軽視することなんてできませんでした。

というか、当時は、建前として「侵略戦争は許されない」でしたが、イギリスもフランスも、侵略戦争しまくっていて(ちょっと時代は遡りますが、アヘン戦争とか)、侵略によって武力制圧し、そこに傀儡政権を擁立して保護国化するなんて、しょっちゅう起きていました。

ただ、日本の主張(満州国建国+保護国化)を鵜呑みにするわけにもいかず、その点は、ヨーロッパ列強も見解が一致していました。日本の強大化は、ヨーロッパ(特にソ連)が望まないからです。

こういったふうに、外交って「建物と本音」があって、リットン調査団の報告書は、こういった「建前と本音」をうまく織り交ぜていたようなのですが、日本の世論は「満州国を認めないとは何事だ!」の一点張りです。

時代を日露戦争に遡ります。

当時、小村寿太郎は、決死の覚悟でポーツマス条約を結び、日露戦争を終結させました。確かに、日露戦争は、ロシアが世界に誇るバルチック艦隊に対し、東郷平八郎率いる大日本帝国連合艦隊が完全勝利を収め、戦闘的には勝利が続いていました。

このような、大日本帝国に有利な情報が広く流されていた状態で(なおかつ、戦闘に勝利を収めていたとはいえ、もちろん、多数の日本軍兵士が戦闘で亡くなっていたこともあって)、結ばれたポーツマス条約は、当時の日本国民にとっては、あまりにも収穫が少ないと評価されました。

しかし、ここで戦争が終わらなければ、日露戦争の泥沼化していた可能性もありました。当時、ロシアは、極東に主力部隊を送ろうとしていて、小村寿太郎は、その主力部隊との戦闘を回避したのです。大日本帝国軍も、大日本帝国自体も、かなり疲弊していたのも、小村寿太郎は、よくよく察知していました。

外交というのは、世論に振り回されればいいわけではありません。「自宅を焼かれるかもしれない(小村寿太郎が実際に覚悟していた)」との覚悟で、国益を確保しなければならないのです。

とまあ、いろいろ書いてきましたが、満州事変によって満州国が建国され、国際的には満州国は承認されなかったものの、小村寿太郎のような偉大な外交官も、当時の日本にはいませんでしたから、大日本帝国は、「満洲国」という国家に対し、「宗主国の国民」として、日本人がたくさん移り住むようになりました。

そういった、満州国への移住は、満州国が建国された昭和7年から始まり、ソ連が対日参戦した昭和20年8月6日まで続きました。

ソ連が対日参戦したことにより、満州国内に、ソ連軍が進攻しました。宣統帝溥儀は、満洲国の廃止を宣言し、満洲国は、日本から見ても、存在しなくなります。満州国であった範囲内は、ソ連軍が武力制圧することになります。

その後、満洲国であった範囲は、国共内戦に勝利した中国共産党の領土となります。

ただ、満洲国内には日本人が取り残されていました。自分が立っている、その下の地面が、かつては、「満洲国」という日本の植民地であったのに、ソ連軍が制圧した土地になったと思ったら、次は、中国共産党の土地になっている。

つまり、最初は「宗主国の国民」としてやってきたのに、同じ地面の上にいただけで、気がついたら「外国人」になっていた、ということです。

しかも、単なる「外国人」ならまだいいんですが、この「外国人」は、現地人(中国人)から見れば、戦争していた敵国です。

戦闘自体は、ポツダム宣言の受託と、その後の9月2日の降伏文書によって終了しますが、「敵国民がいる」と思われているのは間違いなくて、そんなところに、安全に住めるわけありません。

だから、多くの日本人は、満洲から日本に帰国しました。しかし、帰れないままだった日本人もいました。「中国残留邦人:とは、このような、日本に帰れないまま、中国に取り残された日本人を指します。

この問題って、「そもそも日本人とは」という、日本人の定義から書かなきゃいけないのですが、それを書き始めると終わらなくなるので、今日はこのへんにします。

それではまた次回!・・・↓

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