見出し画像

東京へ憧れたあの頃

北海道の片田舎で生まれ育った私は、札幌の男子校のカトリックの高校を卒業して、将来何をしていいのか、まるでわからなかった。

自分が住んでいる世界が、とても狭くちっぽけに感じた。そんな時、テレビっ子だった私は、テレビに映る東京の新宿、渋谷、六本木の街並みが眩しく輝いていた。

北海道の札幌近郊に住んで一度も家を出たことがなかった。 一人っ子の家庭がまだ珍しい時代、自分の可能性を試したかったのだ。
鍵っ子と言われた小学生時代。共稼ぎの両親。秋田の片田舎から2人で新天地を求めて、北海道に渡ってきた両親。裸一貫で、汗水流して、建てた新築の一軒家から歩いて、10分もかからない小学校に通った。

当たり前のように、次は地元の中学校に通った。バレーボール部活動をして、数学が得意な少年だった。学園祭では、全校生徒の前で、その当時、流行していた中村雅俊の「ふれあい」と「ただお前がいい」を熱唱した。校内ではちょっとした人気者。

高校でやっと、100万都市札幌ヘ電車通学が始まった。地元に居る時よりは、視野が広くなったが、将来の目標もなく、毎日、勉強、ただ、帰りに必ず、寄ったカレーショップ「りる」でポークカレーを頬張るのが一番の楽しみ。

ママさんが「今日もゆで卵サービスね」

鍵っ子だった私は、ここが誰もいない家に帰るよりホッコリした。
そんな日々を粛々と過ごし高校2年生となると、進路をどうするかの話が出始める。
どうしよう悶々とする日々。運良く、理系進学コースに選ばれ、3年生になった。自信があったのは、数学だけ。
そして、受験。共通一次試験。二次試験は、北見にある国立受験。あえなく撃沈。しかし、本命は、私立。憧れた東京。結果は、沈没。気持ちを切り替えて、浪人生活が始まった。浪人仲間と海に行ったり、札幌ビール園で一夏のアルバイト、そこで見かけたオフコースの小田和正。建築現場で親の手伝いもした。濃密な1ヶ月。後は受験勉強一筋の毎日。そして、東京で受験。その年は、日航機の逆噴射、ホテルニュージャパンの火災があった年。宿泊したホテルでの夕食は今でも忘れられない思い出。結果は、何とか夜学に合格。奨学金をもらいながら、飯田橋の大学の近くにある書籍卸会社でアルバイトをしながら、学生生活を始めた。
希望に燃えて、何でもやれそうな気がした。
若い頃は、失敗が許される。イヤ、許されなくてもやり直しができる。
私には、どんな将来が待っているのだろう。今は毎日を精一杯、東京の誘惑に惑わされ、騙されて、時には、楽しい経験をしながら、歩んでいくのだろう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?