見出し画像

映画「愛について語るときにイケダの語ること」を観て。

企画・監督・撮影・出演:池田英彦
出演:毛利悟巳
プロデューサー・撮影・脚本:真野勝成
共同プロデューサー・構成・編集:佐々木誠

「愛されることとは何だろう。」

監督と主演を務める池田氏は、
四肢軟骨無形成症(通称コビト症)という障害を持っている、
ということ以外はいたって普通の青年だ。

移動はキックボード、車も運転する。
イケメンで職場でも人気者。
そんな男性が癌で余命宣告をされる。

池田氏は死ぬまでの自分のセックスの記録映像を残し、映画にすることを決める。

人の心の底は見えないが、彼がこの映画を作ろうと思うに至った心の軌跡に思いを馳せてみたい。それは自分とは無関係のものとは到底思えないからだ。

もしかしたら最初は軽い気持ちだったのかもしれない。
いや、それは十分に重いのだが。

いわゆる障害者と呼ばれる人のセックスを、ある種の記録として撮っておくことの意義みたいなものも感じたのかもしれない。 

しかし、私はそこに反骨精神みたいなものを感じたのである。
何に対して?彼にとってもその答えは明確なものではなかったかもしれない。

障害を持つ身として、彼はたぶん家族にも友達にも少なからずの遠慮をしながら生きてきたことは想像に固くない。
人に好かれたという彼は、寧ろ遠慮していることさえも見せないで、空気を読み、周囲に溶け込み、人一倍身構えて生きてきたのかもしれない。

これはある種の諦念だ。
ありのままの自分を理解してもらうことに対する諦め。
我儘を言ったり、自分の辛さを訴え過ぎて敬遠されたり、そうしたことへの社会の反応を見ながら、彼は「上手くやっていく」ことに決めたのかもしれない。

映画の中で何回か家族に言及しているが、
家族に対する気遣いと憤りの両方が伺える。

パンフレットの情報だが、彼の母親が息子が障害を持ったのは産まれる前に庭の池を埋めたのが原因で後悔していると言ったらしい。
彼はそれを聞いて「俺はこの身体で生きてるのに」と思ったという。
多分、彼のご家族は彼を誰よりも愛し、最も彼の苦悩を共有してきた存在だろう。
それなのに親の何気ない言葉に彼の存在は容易く否定されてしまう。
親だからこそ、だろう。

そしていよいよ癌の末期となった時「内容的に家族とも無関係ではないが遺言を優先させて映画を完成させて欲しい」と真野氏に念を押す。
そこに彼の家族との距離、アンビバレンツな家族に対する複雑な思いをを感じるのである。

愛されるということはどういうことか。
池を埋めなければ良かったと後悔されることではないのだ。
ありのままの自分を受け入れて抱きしめてもらえる。これに尽きるのではないだろうか。
彼の孤独を思う。

飄々とした笑顔で淡々と生きているように見えるが、その心は愛に飢え、愛されることを希望として胸に秘め、生きてきたのではないかと思う。

人生への諦念、とはうらはらに、心は伴侶を持つこと家族を持つことを夢に描いていたのではないか。
擬似恋愛の悟巳さんの返答に素で応えてしまった。
それは彼がいつも考え、何万回もシミュレーションしたことだからだ。
彼にとって捨て置けないテーマだったからだろう。

セックスは自分をさらけ出し、無防備にならなければ本当の快楽を得られない。
彼はセックスの最中は強くなった気がするとも言っていた。
「社会的な」防護服を脱いで、素でいられる自分は最強だったのかもしれない。
だから彼はセックスが好きだったし、自分のありのままの姿を、この世に生きた証として残したかったのではないだろうか。

そして、出来ればそんな自分を愛してもらいたかった。
不器用なハメ撮り(あえてこの言葉を使わせていただく)だけど、確実に彼は存在していて、生きる快楽を味わっていたのだ。

ここで、ふと彼の反骨精神は、彼が愛し求めて止まなかった全ての人に向けられていたのではないかと思った。

「愛してるって、言ったことある?」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?