『線香花火』のような儚くも力強い理想の女性像

こんにちは。ベイジュです!

7月3日から新紙幣に変わるのはご存知ですか!?
キャッシュレス派の方も増えてる中、今更感は否めませんが、無視もできません。いまだに新500円も使えない販売機もまだある中で、新紙幣利用可能の販売機に移行されるのはいつになるのやらっと思います。

2004年から現在のお札になり、
5000円札の樋口一葉は、実在の人物として、初めて女性で紙幣に肖像を飾りました。
樋口一葉は『たけくらべ』書いた作家。
そんな認識しかなかったのですが、実はとても波瀾万丈の中強く生きる樋口一葉について書きます。

○樋口一葉の人生


出典:国立国会図書


誕生:1872年(明治5年)5月2日
没年:1896年(明治29年)11月23日(24歳没)
本名:樋口奈津(なつ)
東京千代田区内幸町生まれ。5人兄弟の次女として育つ。

樋口一葉は、東京府庁舎の役員に父を持ち、中流階級として、4歳〜9歳まで今の東大赤門の向かいで比較的裕福な生活をしていました。

①挫折
小学校の成績で首席になるなど、幼少の頃から読書好きで優秀だった一葉は、11歳の頃、母親のたきに、女性が学問を学ぶ必要がないと反対され、学校を辞退学させられ、家事手伝いをするようになった。このことは日記にも「悲しく辛いことだった」と書き残していた。

見かねた父親(則義)は、一葉の勉学の意欲を買い、14歳の頃、和塾の「萩の舎(はぎのや)」に通わせてくれた。「萩の舎」は上流階級のサロンでもあり、一葉は中島歌子に師事し、和歌の創作に打ち込みました。

②挫折
上の兄を気管支炎で亡くし、姉が嫁に行った。
17歳の頃、父親が退職後に出資した事業が失敗し、多額の負債を抱えたまま病死してしまいました。
下の兄は家を出ていたため、また元々許嫁だった坂本三郎(旧姓:渋谷)とはこの時に婚約破棄されてしまい、一葉が家督を継がなければならなくなり、母・一葉・妹は極貧生活を余儀なくされました。

家族は内職をはじめ、仕立て屋、蝉表づくりなどで、家計を支えていましたが、家賃も払わなければいけないということで、借金しながらの苦しい生活が続きました。
「萩の舎」に通う姉弟子、田辺花圃(たなべかほ)が小説「藪の鶯」を書き多額の原稿料(33円20銭)を得他ことを知り、「小説を書いてお金を稼ごうと思い、小説家を目指します。


一葉が19歳の頃、妹の友人野々宮きくの計らいで、「東京朝日新聞」の小説記者、半井桃水に弟子入りしました。
大衆受けする小説の書き方を教わりながら、一葉のデビュー作『闇桜』(武蔵野にて)を発表します。片恋をテーマに主人公の悲恋を描いた作品でした。桃水に指導を受け小説を書き続けるが、収入はほとんどなく、
極貧生活から抜け出せないでいました。
そのような中、萩の舎で桃水との関係を疑われ、師弟関係を断つことになりました。

①転機
その後田辺花圃に相談し、雑誌『都の花』で小説を書くことにしました。
20歳の頃『埋もれ木』で文壇デビューをします。
原稿料は11円75銭でした。一月7円で暮らす樋口家にとっては大金でしたが、借金を返す為に使われたので、生活はほとんど変わらなかった。

②転機
その後、また田辺花圃から、『文學界』の作品依頼を頼まれ、『雪の日』を書きました。これをきっかけに、一葉は、『文學界』の同人との間に交流を深めて行きます。

樋口家は、生活難を打開しようと、吉原の遊郭の隣の長屋に移り住み、商売を始めます。母・妹と3人で商売をするが、軌道に乗らず、10ヶ月で店を畳みました。
その後、本郷福山町へ住まいを移します。
日清戦争の中でも執筆を続けました。
明治27年12月〜明治29年2月までに『大つごもり』『たけくらべ』『十三夜』など11もの作品を執筆しました。この時期をのちに奇跡の14ヶ月と言われました。

明治29年4月には当時不治の病とされる肺結核の末期の症状が現れ、8月病状病状絶望と医師から診断される。
同年11月23日に24年の短い生涯を終えました。


○女性作家の歴史


平安時代中期に紫式部の『源氏物語』、清少納言の『枕草子』が日本女性文学の始まりと言われています。それから武家社会になり、女性文学は閉塞しました。
それから、明治以降、女性も男性同様教育を受ける機会を得て、三宅花圃(本名:田辺龍子)が女性初となる近代小説『藪の鶯』を書きました。
職業作家としては女性初は樋口一葉と言われています。

中島歌子の歌塾で同門であった三宅の作家としての成功は樋口を刺激し、小説を書いて生計を得ることを思いつかせました。樋口は『にごりえ』や『たけくらべ』など女性として社会で生きる困難や悲哀を描く名作を短期間で発表し、文壇で注目されました。さらに樋口の登場間もないうちに現れた与謝野晶子は女性の官能を自由に歌い上げた詩を発表し、女性解放運動に影響を与えました。

引用:国立国会図書館「時代を切り開いた女性作家たち」

明治に入り、女性も教育を受けられるようにはなってきましたが、時代的な価値観では、多数派が『女に学問はいらない』という常識があり、ここで奮闘してきた女性たちをすごく尊敬します。

○明治時代の女子教育の歴史

1871(明治4)年の冬、欧米視察の岩倉具視大使一行とともに、留学生58人が横浜港を出発した。この留学生58人のなかに、将来の女子教育にそなえて、当時7歳に満たなかった津田梅子ら女性5名がふくまれていた。男子留学生の場合はできるだけ迅速に必要な専門知識や技術を吸収させ、帰国後にそれを活用するのが目的であったが、女子の場合は、7歳から14歳の少女に対し、気長に10年間の西洋流の教育を受けさせようとした一種の培養実験であった。この国策としての留学を決めた北海道開拓次官であった黒田清隆がヨ-ロッパ各国を回った際に、アメリカの女性の地位が高く、環境に恵まれていたことに深く心を打たれたからというのが定説になっているようだ。しかし、最年長の14歳の2人は健康上の理由で翌年帰国している。10年経った1881(明治14)年、永井繁子が帰国し、翌年の1882年に津田梅子と山川捨松が帰国した。留学の成果はというと、永井繁子と山川捨松の場合はさっさと結婚をして家庭に入ってしまった。津田梅子は日本語を忘れ、また、日本の現実社会に適応するものが何もなく、女子留学生の帰国を待ち受ける国家的仕事は何も用意されていなかった。梅子は伊藤博文の娘の英語の家庭教師をしていたが、再度アメリカに留学し、本格的に女子教育に身を捧げようと決心する。梅子はプリンマ-大学で生物学を修め、専門誌に連名で論文も発表している。しかし、生物学者としての道に進まず、遅れた日本の女子教育のために尽くすことを決意し、日本にもどり、女子英学塾(現津田塾大学)を開いた。もし、梅子が生物学者として日本で活動する場があったら、その後の日本女性科学者に少なからず影響をおよぼしたかも知れない。



明治維新後、日本は西洋の科学技術の移植を目指して、国家をあげて科学者・技術者の養成を行ってきたが、その中心となったのは1877(明治10)年に創立された東京大学を筆頭とする7つの帝国大学であった。1876(明治19)年に公布された帝国大学令には女子の入学を禁じているわけではなかったが、入学資格が高等学校卒業生に限られていたため、現実には女子に入学する道はなかった。



女子の高等教育の始まりは、1872(明治5)年学制が発布されてからである。この年に東京神田に官立東京女学校が生まれ、一般教養に重点を置いたわが国の女子教育が始まった。しかし、この学校は1877(明治10)年には閉鎖されてしまう。一方、学制は1879(明治12)年には教育令に変わり、これ以降男女別学を原則とする教育体制が作られていく。



東京女学校に続く公の女子教育機関として、1874(明治7)年に東京女子師範学校が設立された。この学校は1885(明治18)年に東京師範学校に吸収され、その女子部となる。さらに、翌年公布された師範学校令に基づき、東京師範が高等師範となったのにともない、女子部も高等師範女子部となる。また、各県には女子師範学校あるいは師範学校女子部が徐々に整備された。そして、1890(明治23)年には東京高等師範から女子部が分離独立し、東京女子高等師範学校(東京女高師、現お茶の水女子大学)となったのである。次いで、1908(明治41)年には奈良にも女子高等師範学校(現奈良女子大学)が置かれた。2つの女高師は戦後の新制大学発足まで、女子の最高教育機関としてその役割を果たした。



東京女高師では創立7年後には、文科と理科に分けて教育を始め、さらに、1905(明治38)年からは4年間の普通科の上に2年間の研究科(文科、理科、家事科)が設けられ、より専門性の高い教育を目指した制度改革がなされるが、研究科の定員は1名にすぎなかった。しかも、女高師の目的は女子教員の養成にあったので、卒業生には教職につく義務が課せられており、女性科学者として独自に研究するには並々ならぬ努力を要した。



このような官立学校のほかに、明治30年代に入ると、私立の女子教育機関が芽生えてくる。1900(明治33)年には、吉岡彌生の東京女医学校(現東京女子医大)、津田梅子の女子英学塾(現津田塾大学)が誕生し、翌年には日本女子大学校が創立された。1918(大正7)年には安井てつにより東京女子大学が創立されている。

引用:ジェンダー・エクイティ推進オフィス「日本の女子高等教育の歴史」より


○樋口一葉の代表作品

『たけくらべ』
遊女になる少女と想いをよせる僧侶になる少年の複雑な心境が描かれている『たけくらべ』は女性の社会的立場の弱さや貧困、などが、美しい言葉で綴られた作品です。数ヶ月しか暮らしてないですが、吉原の遊郭付近に住んでいた頃の経験が、この作品を作るきっかけになったそうです。この作品を森鴎外や幸田露伴はいたく気に入り、絶賛していたと記されています。

『にごりえ』
『にごりえ』は『濁った水」の意味を持つ言葉通り、社会の底辺層に生きる人々の生を描いています。恋模様と出世欲が混ざり合い、やるせない境遇の中で葛藤する名作です。私はこの作品で、一葉もこうやって、想いを遂げた人と一緒に楽になりたいのかな?なりたい自分を描いているのかと思いました。

○最後に・・・


樋口一葉の作品はどれも、自分と重ね合わせ苦しかった時代が伺えます。自分の書きたいものは何なのかと奮闘しながらも、そうも言ってられない。女の自分が家族を支えないといけない。そんなどうしようもない境遇を変えたくて、文学という世界で全力で走り切って一葉。
24年間の短い命の中で、色々な困難と戦いながらも、懸命なところがとてもかっこよくて最後の14ヶ月の怒涛の執筆活動は、奇跡そのものだと思います。私たちは選べる時代に生まれてるのに、泣き言言ってられないなと思いました。私も誰かのために、未来の人々のために生きる道を歩んでいけたらと思います。



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