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自分ごとの価値に根ざす地域資本主義〈6.自分ごとの価値〉

〈5.はじめに〉はこちら

本章では、地域資本主義の根幹に位置づく「自分ごとの価値」について考察していきます。

まず、私が考える豊かな社会とは、人々がそれぞれの「自分ごとの価値」に基づいて最大限の幸福を実感する社会です。
しかし、昨今の社会は、画一的な経済的な豊かさ/物的な豊かさを目指し、経済成長を志向してきました。その結果、4章の【経済成長にその価値を問う】で述べたように、経済成長は一定程度の物的な豊かさを実現しましたが、幸福度は向上せず、さらに環境破壊やメンタルヘルスの問題を引き起こしてしまいました。
私は、多くのお金やモノに囲まれていても、人自身が豊かさを実感していなければ本末転倒ではないかと思います。人/社会/地球のための経済であったはずなのに、いつしか経済のために人/社会/地球が消費されるようになってしまったのではないでしょうか。

そこで、これまでの交換価値に基づく経済成長ではなく、使用価値に基づく人自身の幸福のための社会を構想していくために、まずは「自分ごとの価値」への理解を深めていきたいと思います。

【6-1.自分ごとの価値とは何か】

・自分なりの使用価値を捉える
私は、自分ごとで価値を測るためには、使用価値を捉えることが必要不可欠であると考えています。
そこで、まずは第1部の主題であった「使用価値」について簡単におさらいさせていただきます。
使用価値は内在的な豊かさの価値観であり、外在的な豊かさの価値観である交換価値の対になる価値の考え方です。使用価値は使用者による豊かさの実感を目指し、交換価値は交換(消費)を促すことでモノに溢れる物的な豊かさを目指します。
交換価値は、市場において交換される際のレートとして測られます。例えば、ある鉛筆は、1本100円という市場における交換価値がつけられています。
対して使用価値は、使用者がそのモノに対してどのような価値を実感しているかによって測られます。例えば、Aさんの手には六角よりも三角の方が馴染むため、三角鉛筆がお気に入りということや、Aさんのために友人が合格祈願のお参りしてくれた際に買ってきてくれた鉛筆には、その友人の応援が感じられるということがあります。こうした使用価値は、Aさんにしか実感することのできない価値ですが、実際にAさんが鉛筆に対して実感している価値です。他の人の手には六角の方が馴染むかもしれず、Aさんのための合格祈願は他人にとって知ったことではありません。

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このとき、モノゴトが人々にもたらす豊かさを「価値」とするのであれば、使用価値を指標とするべきです。例えば、ダイヤモンドがちりばめられた100万円の鉛筆も、使用者にとって使いづらかったら価値がありません。逆に、交換価値のないボロボロの鉛筆であっても、使用者にとっては勉強の戦友としての愛着や、たくさん勉強した証としての達成感の価値があるでしょう。ある1本の鉛筆がもつ価値というのは、その鉛筆がどのような豊かさ/幸福を使用者に与えたか、によってこそ測ることができるのではないかと考えています。
そして、モノゴトが自分にとってどのような豊かさ/幸福(=使用価値)をもたらしてくれたのかを捉えるということが「自分ごとの価値」の正体です。

【6-2.自分ごとの価値を眺める】

本節では、自分ごとの価値についての具体例を挙げながら、実際に価値がどのように構成されていくのかを観ていきます。さらに、自分ごとの価値をいくつかに分類することも試みたいと思います。

・使用体験
1つ目は、実際にいかにして使用されたのか、そのとき使用者はどのような使い心地を感じたのかという「使用体験」です。同じモノゴトであっても、人それぞれに使い方は異なり、また使い心地や感じ方ももちろん異なるでしょう。
まず、使用体験の「身体性」に着目します。使用体験が人それぞれであるとき、それは人の身体や生活環境が一人ひとり異なっていることに由来する場合があります。例えば、使用価値の高い靴というのは、その使用者の足のサイズ、形、動かし方、筋肉の柔らかさ、着用する服との相性、どのような道を歩くのか、乾燥した地域か雨の多い地域か等といった、その使用者の生活環境や身体などに合わせて作られます。画一化された規格によって大量生産されたモノではなく、その使用者の身体や生活環境に合わせて作られることによって「使用体験」を向上させることができます。(参考:「経済成長主義への訣別」P317,318)
そして、靴の使用価値を測る際には、自分の足のサイズ/形/動かし方に合っているか、着用する服には馴染んでいるか、生活環境の道や気候には適しているかということを、自分ごととして捉えることが必要なのです。
次に、使用体験にまつわる「意味づけ」に着目します。3章の【価値と“身体性”】では、『買えない味』平松洋子著,P24の「豆皿に小宇宙を見出す例」を紹介させていただきました。湯豆腐を食べる際、豆皿に対してまるで小宇宙であると感じたことによって、『ただあたためただけの豆腐一丁の夕餉も、何枚かの豆皿のおかげで思いもかけず楽しげな時間に生まれ変わる』というものでした。この例から、平松さんは豆皿や食事に対して小宇宙という意味を見出したことで、豆皿や食事の使用体験がより豊かなものに変化した、と捉えることができます。また、2章の【幸せについて】では、食事という体験に、家族でお祝いをするという意味を付与することで、幸福な時間へと変化することを説明しました。以上の2つの例で示すように、使用体験に対して自分なりに意味づけを行なうことによって、モノゴトの幸福な使用価値を享受し、自分ごとの価値に至ることができると考えています。(2章【幸福な使用価値の社会】

・モノゴトの有意味性
上記のように、自分なりの意味づけによって使用価値は向上します。上に示したのは使用体験への意味づけでしたが、2つ目としてモノゴトに対する「意味づけ」に着目していきます。
まず、モノゴトの生産や購買の背景に対する思い入れを育むことで、自分ごとの価値を向上させることができます。例えば、4章の【使用価値の経済における使用のあり方】で前述したように、誰が作ったのかわからないジャガイモよりも、知り合いの佐藤さんが作ったジャガイモのほうに思い入れを感じます。また、Aさんにとって、友人がわざわざ合格祈願をしてくれた鉛筆には特別な意味があります。さらに、亡くなったおじいちゃんの“形見”や、“おそろい”の指輪、“プレゼント”でもらった財布などには、モノゴトの生産や購買の背景に対する思い入れがあることによって、自分ごとの価値を感じることができるのです。
次に、モノゴトを使用しているなかで、思い入れが蓄積されていくこともあります。例えば、長年履いているジーンズについたアタリというのは、育ててきた分だけ愛着があります。また、留学や旅で使ったリュックや靴には、使い込んだ分だけ冒険の相棒としての愛情や感謝の気持ちを抱きます。さらに、1章で紹介した有意味性が蓄積することで「かけがえのない家」となる例は、まさにモノゴトを使用するなかで育まれた思い出や愛着によって自分ごとの価値を実感する好例です。
このように、モノゴトに対して自分だからこそ抱く思い出や愛着という「意味」を持つことによって、市場における評価ではなく、自分ごとの価値を構成することができるのです。

・モノゴトの使用期間
3つ目は、モノゴトの「使用期間」です。モノゴトに長く関われば関わるほど、多くの「使用体験」が生まれ、さまざまな思い出や愛着による「有意味性」が蓄積されていきます。また、使用価値というのは使用することによって得られた豊かさのことであり、使用すればするほど多くの価値がもたらされます。
例えば、1週間旅行で訪れた土地よりも、20年住んだ地元の方が多くの思い出や愛着があり、その土地には自分なりの「有意味性」が根付いているはずです。また、1度しか履いていない高級ブランドのスニーカーよりも、何十回も履いて出かけたコンバースは、自分の足に馴染んでいて履き心地がよく、愛着も湧いているでしょう。そしてなにより、何十回分の使用価値をもたらしてくれています。
こうしたモノゴトの有意味性の蓄積や使用期間に着目する使用価値の価値観は、交換価値の追求にもとづく消費社会に対抗します。交換価値の経済では、既存のモノと新規のモノの交換を目指し、モノを購入してもらうことによる利益を目指します。そして、次から次へとモノを交換させるために、モノから耐久性をそぎ落とし、どんなモノでも使い捨ての消費財のように扱うという消費社会が樹立されました。(4章【使用価値の経済における生産のあり方】
このような消費社会においては、「モノゴトの使用期間」をできるだけ短くすることが目指されます。“新製品”や“トレンド”をもてはやし、交換することを促します。こうすることによって、消費者は有意味性が蓄積した自分ごとの価値ではなく、世の中の流行りやステータスという社会的な価値を目指して経済活動を行なっています。その結果、新しいモノ/流行りのモノを次から次へと買い替えるのです。
着古したボロボロのシャツは写真には映えないかもしれないけれど、あせた色からたくさんの思い出を想像し、縫い直したボタンには使用者の愛情を感じます。薄汚れていて誰も欲しがらなかったとしても、使用者にとっては唯一無二のかけがえのないものです。自分ごとの価値というのは、使用者が長く使うこと、愛情を持ってケアを施すこと、たくさんの思い出をつくること、使用体験に向き合って意味を見出すことによって育まれる価値であると、私は考えます。

【6-3.多様な価値、多様な幸せ】

・自分ごとの幸せ
自分ごとの価値を追求するということは、自分ごとの幸せを追求するということに重なります。
まず、自分ごとの価値とは、モノゴトが自分にとってどのような豊かさ/幸福(=使用価値)をもたらしてくれたのかを捉えるということでした。(【6-1.自分ごとの価値とは何か】)そのため、自分ごとの価値に根ざすということは、自分ごとの幸福に向き合って捉えるということでもあるのです。
さらに、2章の【幸せについて】で前述したように、幸福とは私たち自身の生のなかで内在的に経験されるものであると考えています。お金や生活レベルなどの外在的な要因だけで決まるものではありません。そして、これまで見てきたように「自分ごとの価値」は、その人自身の実感に基づくものです。他者にとっては何の変哲もないただの鉛筆かもしれないが、Aさんにとっては友人の気持ちがこもったかけがえのない1本の鉛筆であるということがあるのです。交換価値に基づけば、どんな鉛筆も1本100円程度として評価されるでしょう。しかし、使用価値に基づくことで、自分ごとの価値に根ざし、自分だからこそ実感できる幸福をかけがえのない価値として捉えることができるのです。

・価値も幸せも、人それぞれだから面白い
私は、一人ひとりが自分なりの価値観を持ち、一人ひとりが自分なりの幸福を享受する社会をつくりたいと思っています。
誰しも理想的な人生に憧れる必要はありません。高級ブランドに憧れる必要もなければ、ミニマリストに憧れたり、のんびりした田舎暮らしに憧れたりする必要もありません。野望を持った起業家に憧れる必要も、才能溢れるスポーツ選手に憧れる必要もありません。“エリート”じゃなくてもいいし、“自分らしい”じゃなくてもいい。ただ、自身の幸福に向き合うべきです。
価値が規定されている社会は、とても息苦しく、私は嫌いです。価値というのは、自分が心の底から湧き出るからこそ豊かで面白いのです。ここまで一生懸命書いてきた『使用価値の価値観』や『自分ごとの価値に根ざす地域資本主義』も、いわば私の「自分なりの価値観」でしかありません。でも、みんながみんな経済的な価値観や交換価値を支持していては面白くありません。私は、私なりの価値をつくりたいと思っていますし、私なりに幸福な人生を歩みたいと思っています。そして、より多くの人々が自分なりの価値観を持ち、自分なりの幸福を享受するようになれば、もっと多様で面白く、幸せな社会に近づくことができるのではないかと考えています。

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7章へ続く(Coming soon)

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