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使用価値の価値観〈3.使用価値とは何か〉

〈1.はじめに〉はこちら
〈2.幸せと使用価値〉はこちら

【3-1.価値と“自分ごと”】

・価値は自分ごととして測られるもの
使用価値の第一の価値観は、価値(豊かさ)とは外在的なものではなく、内在的に実感されるものであるということです。価値は、市場性で測られるものではなく、人自身が測るものであり、それぞれの人が自分ごととして捉えるものであると考えます。
交換価値では、市場での交換の際に評価できないという理由で、個別固有の主観的な価値が排除されます。交換するための価値なので、誰にでも共通な一般的なものでなければなりません。これにより、外在的な価値を志向しています。
しかし、価値というのは内在的に経験されるものであり、絶対的な基準や真理が存在するものではありません。交換価値というのは、交換する際のレートであって、本質的な価値ではないのです。
そして、使用価値はこうした価値の内在的な側面に焦点を当てます。使用価値というのは、ものごとの固有性、身体性、主観性、多義性、象徴性を捨象しない価値であり、私は自分ごとの価値観を社会に根づかせたいと考えています。
例えば、モノの価値を測る際には、市場における値段で考えたり、広告の受け売りで考えたりするのではなく、自分ごととしてモノに関わり、使い、自分なりの意味を見出したり、また自分なりの使い方/自分になじむ使い方を見つけたりすることで、自分ごととして価値を測ることができます。自分なりの価値に至るためには、自分のからだというフィルターで再解釈することが必要です。

・価値の構成的理解
私は、価値というのは構成的に作られるものであり、その構成的な生成の過程を理解したいと考えています。価値というのは内在的に経験されるものであり、絶対的な基準や真理が存在するものではないと述べました。そして、価値は人自身によって内在的に経験されるなかで、人によって構成的に形成されていきます。なお、構成的というのは、主体が対象から何かをそのまま受け取るのではなく、主体と対象との相互作用によって認識が構成されていくという、構成主義の考え方を意味しています。簡単に言えば、価値は、対象によって与えられるものではなく、主体によって漸進的に作られていくものだという考え方です。

・個の手触り感のある価値
価値が内在的に経験されるもの/構成的に生成されるものであるとすると、その価値には一人ひとりの物語があり、個の手触り感のあるものになります。
1章で前述した家の例がよく当てはまっています。古びた家であっても、そこに長年住んだ人とってはたくさんの思い出が詰まった家であり、何物にもかえがたい価値を持っています。使用価値のある家というのは、そこに住まう人だからこそ実感できる、個の手触り感のある価値を持っているのです。
また、生産の側に立った例を挙げると、トマトには100円という交換価値だけでなく、作った人の工夫や生産についての物語という個の手触り感があるべきです。また、100個売れたから10000円の売上という交換価値だけでなく、買ってくれた100人それぞれの食事のシーンや満足感という個の手触り感があるべきです。

【3-2.価値と“身体性”】

・価値から身体性が剥奪されている
私は、価値というのは価値があると感じられるという体感によって生まれるものだと考えています。内在的に豊かさを実感するということは、自らの体感に向き合い、自分がどのような豊かさを感じているのかをメタ認知することであり、その体感に合わせてより豊かさを感じられるように行為を変化させていくということです。
しかし現代において、モノの価値から身体性がなくなりつつあるのではないかと感じることがあります。
一つ目に、モノは使用されるという使用の身体性が見過ごされるようになっています。特に象徴的なのが、ネットショッピングの普及によって、使い心地の良いモノではなく、SNS等のネットで映えるモノが生産されているという事例です。買い物から身体性が剥奪されることで、使用者は実際に手にとってモノを見定めたり、実際に使い心地を試してみたりすることができません。また、ネット上では写真によって商品が選ばれるため、実際に手にとってみないとわからない使い心地にこだわった生産(身体性に富んだ生産)は非常に不利であり、ただ写真映えするモノが生産されるようになってしまいます。
また、交換価値の経済においては交換する(たくさん売る)ことが目指されるため、実際の生活の場面で個別的な一人ひとりの人が使用するということが忘却されています。
二つ目は、金融経済によって身体性のないカネが一人歩きしているということが挙げられます。金融経済は、カネがカネを生むという一切の身体性/使用価値のない交換価値の経済です。モノは手間をかけて作られ、人によって使用されることによって価値が発生しますが、投資というのはただカネが増えるかどうかという数字だけが価値を支配する領域です。カネを目的または指標に据えることで、価値は身体性を伴わないただの数字に成り下がるということが当たり前になってしまっています。

・使用価値と自分なりの意味
「買えない味」平松洋子著,P24に紹介されている、豆皿に小宇宙を見出す例は、自分なりの意味によって使用価値が向上するということをよく表しています。

今夜の夕餉は湯豆腐です。けれど、いつものとは趣が違う。静かに火を通した豆腐を少しづつ箸で崩しては、塩をつける。醤油に浸す。七味をくっつけてみる。(略)ふわあとあったかい豆腐の前に、塩と醤油と七味を入れた豆皿がみっつ、ぽんぽんぽん、楽しげに並んでいる。
もううつわは十分、と宣言しつつ豆皿にだけは手を伸ばすことを自分に許しているひとがいる。(略)それは、世界で一番小さなこのうつわがそれぞれの宇宙を持っているからに違いない。丸。扇面。葉っぱ。貝。鳥。野菜。花びら。輪花。蝶。菱形に角形、六角、小判、折紙……
つまりは豆皿を取り出すほんのひと手間を惜しまぬだけで、なんでもない日常の時間にひとくぎり。取るに足らないちまちま些細な存在に見えながら、どっこい空間を見事に仕切り直してみせる。だから、ただあたためただけの豆腐一丁の夕餉も、何枚かの豆皿のおかげで思いもかけず楽しげな時間に生まれ変わるのだ。

普通に生活していれば通り過ぎてしまうようなモノゴト(豆皿)に着眼して、自分なりの意味(小宇宙)を見出しています。この自分なりに見出した意味によって、湯豆腐を食べるだけの食事が、豆皿の小宇宙を探索するような食事の時間に変わります。2章でも食事の例をあげましたが、ただ腹を満たすという快から、その食事の意味を味わう幸福な時間へと変わります。こうした「豆皿」の使用体験の変容こそ、「豆皿」の使用価値によってもたらされたものであると考えます。
また、小宇宙という意味を見出された豆皿は、ただの「豆皿」から、特別な「小宇宙の入り口としての豆皿」に変わります。このような自分なりの意味が生み出されたことによる「豆皿」の価値の変化を、「豆皿」の有意味性が向上した、という風に捉えます。
使用価値というのは「使用しているモノに着眼し、使用体験のなかからモノに対する自分なりの意味を見出し、その意味によって使用体験が変容する」という過程によるモノと自分に根ざす価値観です。この例からもわかるように、使用価値は感性の一種であり、着眼と解釈によるものであると考えることができます。『頭ではなく、からだで何かを感じ、それが生活をどう潤してくれるのかを、一般的にではなく、自分に即して考えてみる。』(「『こつ』と『スランプ』の研究」諏訪正樹著,P33)このような生活意識を持つのが、使用価値の価値観です。

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〈4.使用価値と経済〉へ続く

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