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たくましく生きよ

『あまのじゃく』1950/4/7 発行 
文化新聞  No. 10


  

パンパン礼賛

    主幹 吉 田 金 八

 人間何が一番嫌なことかと言えば死ぬことであろう。丈夫なうちこそ「死ぬ気になって」とか「死んでしまう」とか簡単に言ってのけるが、さて死地に臨んだとなると、石にしがみ付いても死にたくないものである。明日をも知れない病人が、生への執着にひたむきになり、死を覚悟して国事に奔命する大政治家が暗殺団に拳銃をぶち込まれた時、新聞には「男子の本懐」と叫んだと書かれていたが、事実は「痛い」とか「死にたくない」と言ったとのことだが、これこそ本当の人間赤裸々の姿であり、笑えない。動物本能の自然なあり方である。
 この死にたくない人間を、死地に駆り立てるために、軍人精神とか大和魂と言う神がかりな道徳を高揚して、大東亜戦争を体当たり戦術で勝ち抜こうとしたが、所詮死にたくない人間本能にはかなわず兵 一人の命を葉書一枚にたとえた日本は、一敗地にまみれ兵員の安全を計数的に確保して戦った米英に最後の勝利がもたらされた。
「死ぬことを飯を食うのと同じように思え」と教えた葉隠れ直訳の戦陣訓をもって全軍を令した将軍たちの大部分がノメノメと市ヶ谷に生き恥を晒し、東条がよう腹もきれなかった事ほどに、死と言うものは容易ならざることである。
 このように、死にたくないはずの人間が自ら生命を断つ事件は昔から現在まで数多く繰り返されている。
 最近この街でも某会社の工場長の情死事件があり、さらにまた数日前には若い女教師の教室自殺が発生し、生活に奔命する世人の耳目に相応のショックを与えた。
 自殺する人々には、その人にとって解決できぬ事情や死をあえてする興奮があってのことで、平常な理性感情でこれを批判推測はできないことであり、死ぬ人のひたむきな気持ちを思えば、礼儀としても慎まなければならぬが、これらの事件を通じて我々に教えるものは、戦後派の日本人はもっともっと強い意志と頑丈な身体を持たねばならないと言うことである。
 病弱で死にたくない人は病気の本源性質を研究して、金をかけずに病気を治すことに専心すべきだ。家庭不和で死にたいと思うのは死ぬほど嫌な家庭をおン出ることである。生活困難で死にたいと言う事情のものは、働き手のない家庭なれば、公の援助を求むべし。働き手が失業している場合はサンドイッチマンでも便所掃除でもやって生き抜かねばならない。
 税金が払えないから死ぬなどと言うのは失恋して自殺する小娘と同類であって、そんな繊細な神経では到底敗戦国の人民生活はおぼつかない。税金の代わりに着ているもの、寝ている布団を剥いでもっていく法律は無いのだから、もっとゆっくりした気持ちと沈着な判断で対処しなければならない。
 街にパンスケが渦巻いている。私はこの人たちが安心しきって自分たちの職業に満足している姿を見て、感嘆と親愛の情を感じる。もちろん売らずに間に合うものならば貞操までは売りたくないが、売らねば食えないとしたならば、泥棒するよりも遥か他人に迷惑をかけず立派な職業である。
 天皇が人間に落ち、軍人が捕虜になり役人政治家が節操を売って恥じない時世に、持ち合わせのものを金に変えて自活する彼女たちの健気さは褒めてやっても軽蔑すべき何者もない。今後我々の生活は生きることが精一杯の状態が必然であるが、どんな苦しいことの中でもずぶとく生きていかねばならない。つまらない潔癖や感傷は敗戦国民には禁物である。
 時に生きる事は死ぬことよりも苦しい場合があっても、苦しさを克服して街の彼女たちのように、がっしりと大地を踏みしめて、自信のある足取りで口笛高らかに人生行路いこうではないか 。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】 

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