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印刷屋で食える域

コラム『あまのじゃく』1963/11/30 発行
文化新聞 No. 4632
 


家族一丸となっての会社経営

    主幹 吉 田 金 八

 この頃、『あまのじゃく』を書くのが相当骨折りである。ひと頃は新聞記事を書いたり、ひとさまの上げ下ろしがいくら書いても書ききれぬほど、次から次へと構想が浮かんで、「屁のような記者はいらない。君たちは汽車でなく新聞トロッコだ」と若い者を叱ったりしても、誰もろくな記事がない時には、全紙面を一人で埋める気概があったものだが、この頃はサッパリである。
 だから、今現役のわずかの取材記者も大事にせざるを得ない。そのわずかの中の一人はこの間大怪我をした。骨折で2ヶ月はギプスが取れないという。そのうち、もう一人は近所の弔いとご祝儀が重なって、3日、4日休むという事態が出来た。
 仕方がないから、怪我をした方の記者を私が送り迎えをして、ギブスの足を引きずらせて原稿を書いてもらう始末で、どうやら穴を開けずに済ましたこともあったが、この頃ではもう昔の頑張りは利かない。
 私が原稿を書けなくなったのは、腹を立つような事件が少なくなったことにもよる。
 友人はこれは「世間に慣れ合って正義感が麻痺したからだ」と言う。
 そうかもしれない。しかし、それは人間誰でもが踏む当然の経路で、老生と言うか、悟りというか、いずれにしても体験の繰り返しから到達した『悟り』とも言えようし、年齢、肉体の老いから生じた『枯れ』でもあろう。
 昨日は1ヶ月ほど前まで輪転機を担当し、市内の一部販売をやってた一人が胃病で武蔵町の国立病院に入院する事態が出来た。
 輪転機の方は長男ともう一人が補充していたので混乱はなかったが、市内の一部の配達の補充ではテンテコ舞いした。時も時、月末なので私は隙を見ては大口の広告料の集金をしたり、支払日に備えて帳簿や金銭の重荷がある。
 また、印刷会社は年末を控えて、いろんな仕事に追われている。
 昨夜はまた大きなチラシ仕事が二つも重なって、刷り上がったものを各新聞店に届けなければならない。
 女房と次男は地下室で午前中から4万近いチラシを刷り続けている。私は配達の補充を夜になって、やっと見つけて、家に帰ったらちょうど地下のオフセットの色変わりで、何本もあるローラーの洗浄を「お父さん頼む」とせがれから命ぜられた。
 一面の校正も私を待っている。地下室には出来上がったチラシを待つお客様が印刷機に付き添っている。
 校正を遅らせれば新聞が遅れるし、新聞と一緒に配送するチラシの配達にも手違いとなる。
 こんな時の校正は逆さの字がなければ良いくらいのお粗末になることは仕方がない。
 女房はすでに朝からオフセットの紙差しに一寸の休みもない状態で、だいたい一人一日1万枚通すことは熟練工とされているのが、すでにその数を越している。
 この頃は丈夫になって、ひと頃のように額に脂汗が流れるようなことはないが、それでも何ミリの誤差も嫌う二色刷りの紙差しの手元が危ない。
 これ以上続けてはかわいそうだと、私が「夕飯にして一息入れよう」と提案して食堂に上がったが、私が子供たちの前で女房の肩をさすってやった。 「こんな時ばかりお父さんはお母さんを大切にする」と娘たちが冷やかす。 「騙されていて幸福なんだ」と私が女房の腹を見たように言う。
 食休みももどかしく、早く刷り上げて新聞屋に届けなければ、地階ではもう輪転機がうなりだした。
 私も余力を振り絞って刷り上がったものを地下室から運び出す。
 せがれ達には軽々と持てる大判一連の紙も、疲れてくると半分に分けて運ぶのがせいぜいである。
 断裁機でいくつにも裁って3000枚くらい宛縄掛けして次々と自動車で送り出されて、やっと仕事の完了の目安がついたが、一時は全く目の回るような忙しさだった。
 今朝、色々なチラシが新聞に入ってきたが、私のところで印刷したチラシも、一応堂々として、ひと頃はどうにもインクの色が水っぽくて、下手なチラシが入ると文化さんだろうと友達に開かれたものだが、この節では地方では一流の自信がついた。
 15、6年、新聞と印刷で苦労したが、その余力で「印刷でも食える」域に達したことは有難いとしなければならない。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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