見出し画像

総選挙の教訓

コラム『あまのじゃく』1958/5/24 発行
文化新聞  No. 2908


我を知らない未熟な社会党

    主幹 吉 田 金 八

 総選挙は自社両党がほぼ現状維持という形で終わった。
 これは、解散前の予想として、今度選挙があれば社会党が5名、10名は進出するのではないかという予想を裏切るもので、岸政府の政策が可もなし不可もなしで、国民全部が満足しないまでも、保守党支持の層は『まぁまぁこんなところさ』と容認していることを示すものというより仕方がない。
 この選挙で社会党が伸びなかったのは、選挙運動期間が20日では短すぎたこと、社会党には自民党ほどの金がなかった事などを浅沼書記長が言い訳しているが、これは納得できない言い訳で、運動期間が短いのはお互い様であり、自民党より社会党が運動費がふんだんに有るなどということは元来あるべき筈がないので、社会党が真に大衆の『党』で、盛り上がる世論を代表する政策を標榜し、またこれが実現への勢力を段々と続けたならば、運動期間や選挙費の問題でなしに、事々の選挙に一歩前進して然るべきである。
 第一、今度の選挙はあれほど何年間も繰り返して要望して叫んできた解散にも拘わらず、解散の様式が馴れ合いの猿芝居的であったことで、これは野党とすれば喜ばしい態度ではない。
 解散を要求する立場というのは、すでに民心を離れた政党が既得権を行使して依然として政権の座を離れない場合において、初めて言い得るもので、馴れ合い解散を行ったと言う事の裏は、野党の政権党に対する闘志が薄いというのであり、勢い国民の選挙に対する身が入らないことになる訳である。
 第一、社会党政府を作ろうというスローガンの『党』が過半数にも達しない公認候補者で選挙を打つということ自体が、見え透いた身振りであって、これではせっかく社会党に好意を持つ大衆が付いて行く訳はないのである。
 社会党が戦後政権を得ることができたのはマッカーサーの申し子みたいなもので、本当に偶然のしからしめたものである。その偶然を偶然と考えず、大人になったつもりで大きく構えたところに、今度の選挙の見込みを誤る原因があったのではないか。
 社会党はまだまだ青年党であり、当分政権こそは取れないが、あくまでも強力野党として自民党の行動を監視し、これが行き過ぎを是正し、不正を叩く役割を十分に果たしていくところに立派な存在意義がある訳で、こうした生き方に徹しておれば、徐々に国民の信頼を勝ち取り、人材と実力を捉えて政権担当の機会に恵まれる訳である。
 今度の選挙の公約で、国内問題に関しては、社会党の政策を自民党に横取りされたことなども、選挙民に対する社会党の迫力が薄らいだ要因とも言われているが、これは何も横取りされたと恨むことはない。社会党の政策を全部自民党が取ってくれることは有難い次第で、国民は誰の手で行われても恩恵を受けることに変わりはなく、ただこれも公約は膏薬だからと、選挙が済んでしまえば剥がれたのでは困るから、これを監視して実行させることに社会党に頑張って貰わねばならない。
 政策の横取りもその政策が人気があると思えばこそやることで、その政策を考えて国民に訴えた社会あってのことなのだから、国民は十分に社会党の存在に感謝、支持することに間違いないでないであろう。
 全国的に投票率が良かった今度の選挙に、入間郡元狭山村が申し合わせたごとく、八割以上の棄権率を示したことは、同村が都下への合併問題からこじれて、二区の候補者も下手な呼びかけをしてもと敬遠した事も原因したかもしれないが、憲法によって保護され、自治法に基づいて住民の意思が尊重されるべき境界変更の問題が、元狭山村民の大部分が東京都に行きたい、東京都もこれを迎えたいという至極スムーズな関係にあるのに、埼玉県側の妨害で中央審議会の答申がこの合併を認めているにもかかわらず、総理大臣裁定を渋っていることに対する不満と、埼玉県側の代議士に対する反対の意図から出た期せずしての集団棄権と見られるが、この結果は一部の地域住民の自由を、広地域の住民の都合から圧迫することが、どんな不測の事態を醸し出すか判らないという警鐘的意味で注目すべきであろう。
 国民のある部分には自区の候補者のどれもこれも気に入らない場合もあるであろう。
 しかし、投票は国民の権利であり、義務であるとの考えから、進まない気持ちで次善の候補者に投票している訳である。
 これは国家と制度を認め、信用しているからこそである。
 もちろん棄権も一種の権利であることは認めるべきだが、住民の八割以上の人たちが棄権するということは、制度や国家に対する不信用の現れとして、これら住民の絶望的状態が想像され、全く由々しい問題と言わなければならない。
 こうした事態と、さらにこれが進展した場合を想起するときに、多数の住民地区の採算や都合から、少数地域の住民をあんまり追い込むということが非常に危険だということを警告したい。
 これと相通ずる坂戸町多和目部落などの場合も同様で、最近問題になっている消防車の車検を機会に、本町側は『消防車をよこせ』と分町運動の粉砕をしようと掛かり、分町側では1年も頑張った消防団が消防車を取り上げられることから自滅し、引いては分町運動が崩れてしまう懸念から、『車検など構わず乗り回す』と、強硬論を捨てず対立しているから、車検のない消防車を乗り回すことを警察が黙って見ている訳がなく、非常に難しい段階に来たことは外部からも想像される。
 本町側とすれば分町派の弱みとして絶好の反撃機会であろうが、こうまで少数住民を追い込むことが果たして賢明なやり方かどうか。
 『一寸の虫にも五分の魂、窮鼠反って猫を』という古語もあることだし、この辺で元狭山、多和目両地区の問題も、大きな立場から為政者は十分に反省する必要があると言えよう。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?