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赤い羽根

コラム『あまのじゃく』1953/11/1 発行 
文化新聞  No. 1022


募金のピンハネがもたらす宗教の”仕組み”

    主幹 吉 田 金 八

 霊友会の幹部が赤い羽根募金を巡って不正ありとの容疑で会長女史が逮捕された事件がある。
 霊友会といえば、記者などの町にも信者が相当数いて、記者のごとき不信人なのは別として、家内のごときは同性の信者に入会を責められて、ご先祖様云々でやられて無下に断りもならず、女の信者などは亭主も家庭も商売もそっちのけで凝り固まっているのが多いから、迂闊に信者を笑うようなことも言えず、さりとて進んで信仰するまでには気乗りもせず、うやむやに若干に会費を払ってお付き合いをしていたらしい。
 今後の司直の調べで、霊友会の欺瞞性が暴露されれば、如何な盲目的信者も目が覚めるであろうし、うるさい入会の勧誘も跡を断つであろうからサッパリする。
 記者は霊友会というものをよく知らないが、既成の仏教各派を抱擁した形で南無妙法蓮華経を唱えて宮城内の清掃奉仕や、見学の写真を会費に掲げて、国民の誰もが、文句のない入会しやすい新興宗教と承知している。
 これに入会すれば難病が解除するという好っ豊富に会員の実験談として会誌を飾っている。
 商売が繁盛しない、心や体に患いのある自信のない老人や、女性の信者が多いらしい。
 記者は俗人で信仰心はケもないし、宗教ということを考えたこともない。
 神仏の前で手を合わせる事も、青年時代は恥ずかしい様な事もあったが、近頃は神様でも仏様でも素直な気持ちで礼拝だけはできるようになった。
 名所、旧跡を歩いて神仏仏閣があれば、何ということなしに礼拝し、これだけの堂閣が終戦後、信徒だけで維持保全することは容易ではあるまいという気持ちで、10円くらいの賽銭は投じる気持ちになった。ただ、どうしても呑み込めないのは神仏に功徳を求める大衆の気持ちである。
 霊友会などという大衆宗教がはびこるのは、既成の仏教が大衆の教化に怠りがあるからだとの説をなす者もあるが、私は仏教がいかに本気で布教をしても、現代人の救いは宗教のみを持ってしては不可能であろうと思う。もちろん救われる人もあろうが、それは極めて一部の人のみで、原子の時代に宗教のみで人間は救われない。
 これで霊友会も一応は批判の対象になるであろうが、人間の弱点はさらに第二、第三の新興宗教が生まれては消えていくであろう。
 募金のピンを跳ねた霊友会が世の批判にさらされると同様に、赤い羽根及びこれに類する羽根募金もそろそろ考えなければならない段階に来ているような気がする。
 駅前にずらりと並んで「お願いします」という無言の強制も年々歳々、毎月のように羽の色を変えて現れると、いささか鼻に付いてくる。
今年あたり現れた無人募金箱が相当人気があったことも、羽根募金に一工夫を要すべきことを教えているのではあるまいか。
 羽をつけねば肩身が狭いのが、羽をつけたら恥ずかしいようなことになったら大変である。
 ただ、心も身も幸いな人が、恵まれの他人のために喜捨を投じる気持ちは、投じる人にとって心の慰めであり、この気持ちは人類の共同生活に失われてはならないものだと思う。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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