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近づく投票日

コラム『あまのじゃく』1963/11/17 発行
文化新聞 No. 4621


身近でない選挙‥‥関心薄い

    主幹 吉 田 金 八 

 名分のない国会解散、 争点のない衆議院選挙だと言われているせいか、今度の選挙は誠に気乗らない。
 特に飯能地方は身近い候補者がいないせいか誠に低調で、稀には候補者の宣伝カーが来ないでもないが、流して歩く方も気乗らない相手では張り合いがないと見えて、意気込みがなっていないようである。
 もっとも、ポスターが公営の掲示板以外貼る事が出来ず、その掲示板も、もっと立候補者がある予定でいくつもマスを取っておいたのに、予定数の立候補者がなく、 太く大きな数字だけの空きマスが秋風にさらされている状態では、気乗らぬ選挙になるのも無理はない。
 選挙が身近かでないことは、「どうでもこの人を当選させたい」という支持者ファンの興奮に代わって「〇〇と▲▲でどちらが勝つか」という野次馬的興味に大衆が左右される競馬場や競輪場で金をかけているファンと、遠いとこでテレビを通じて勝負を眺める一般消費者の相違に例えられべき、熱の入れ方の違いである。
 身近かとか身遠いとかは何を言うのか、候補者の出身地が住民に近い人か遠いとかの相違による親近感もあるし、同じ働く者の階級による利害共通の場合もある。
 しかし、前者の場合、国会議員は市町村議員や県会議員と違って、地域代表的な意味ばかりにとらわれることは間違いであることも承知している。
 しかし、それは理屈であって感情ではない。
 わたしは野球に大した関心はないが、飯能高校が甲子園出場の県下予選に出るといえば、飯高を勝たせたいと思い、飯高が破れて大宮が県を代表して甲子園に出れば、大宮の成果に期待をかける。これが民衆の心理である。
 これを候補者の方でもうまく利用することに抜け目はない。「私は祖父以来御地方のご支持で政治の場で働かせて貰っている」と、輸入候補であっても、すでに永く地域に同化していることを看板にしている候補もあれば、公報にも連呼にも所属政党は曖昧にして、「〇〇市出身」や「〇〇市公認」の一点張りの要領の良いのもある。もしくは地域のつながりが薄いとあれば、同性の立場を殊更に強調する場合もあり得る。
 しかし、今度の2区の場合、選挙戦は極めて平静に展開されていると言うべきである。
 事前運動には多少目に余るものがあったと見られるが、これも充分名の売れていない候補者とすれば当然の焦りで、この程度のことは大衆は目くじらを立てるほどには気にしていない。いずれは21日の投票で二区選挙民の賢愚は立証されることを信じる。
 何の選挙でも大衆はボンヤリのようで案外良いとこを見抜いていると感慨させられることである。
 今回は飯能地方は特に意気みかえった運動が少なかったことだけに、票の行方に興味がそそられる。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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