見出し画像

あまのじゃくの旅 (1)

コラム『あまのじゃく』1962/5/8 発行
文化新聞  No. 4150


上越から新潟…”只”見て歩くの記

    主幹 吉 田 金 八

 『憲法記念日』、『こどもの日』と連休の5月、我が家でもゴールデンウィークを楽しまなくてはと、5日の新聞休刊日と6日の日曜日の2日続きの連休を利用して女房を連れて旅に出た。
 最初は自動車で行くつもりだったが、三河島の国電事故があったりして、『この分なら汽車の旅行客も恐れをなして、多少は減ったろう』という見通しと、それに五日は朝来の雨で、我が愛車はワイパーの具合が悪く、雨中のウィンドウ越し長距離ドライブは心身ともに疲れるという心配もあり、急遽『行き当たりばったりの汽車の旅』と決めた。
 例によって『あまのじゃく』で、あまり他人が行かない地方として選定されたのが『奥只見ダム』。何週間か前、どこぞの新聞の日曜特集『日本の鉄道=只見線』の記憶を思い出した。
 この記事もボンヤリ読んだだけで、大した印象も残っていなかったが、小出から別れるローカル線、ただし、本物の奥只見ダムはまだ工事中で、これに行くには小出から最近売り出しの大湯温泉を経て、大部分がトンネルの工事専用道路を行くように書いてあった事、只見線には数カ所の無人駅があるという事、終点の大白川は平家の落ち武者が住み付いた伝説もあるが、それはこじつけらしい事、この只見線は収入の10倍も経費がかかる赤字線で、国鉄では廃止してバスを通わせたい意向だが、住民はもちろん反対、何十年か先には会津の方に繋がることに淡い夢を抱いている、といった程度の読後の記憶がある程度で、誠に儚い思いつきに過ぎなかった。
 東飯能を出たのが11時何分かで、旅行とすれば誠に遅発ちであった。
 雨の休日でも八高線は相当混んでいて、窮屈な思いで高崎に着いたのが2時頃だった。
 高崎ですぐ接続があったのが長岡行きの鈍行。これ幸いと二合ビンとつまみ物、弁当などを仕込んでこれに乗り込んだが、発車した車中を見渡すと誠に閑散。
 これは運が良かったと女房にも杯を進め、うつらうつらとしながら途中の説明を女房にしていたが、この列車の遅いこと。何度となく上りとの対向、後から来る急行、貨物列車の退避などで、駅々で15分くらいの停車はザラ、小出駅に着いたのはすでに夕方間近い頃になり、すぐ乗り継いだ只見線の三両の箱はほとんどが帰校時の高校生で占められていた。
 上越では山の頂か山間にしか見られなかった残雪が、この只見線の沿線には家々の裏手とか、日陰道の端にまで根雪を残しており、途中にある発電所の構内などには、汚れた雪の上に桜吹雪が一面に積もって、 雪か桜か見分けがつかぬ珍しい景色が見受けられた。
 事前に案内書も地図も見ないで行き当たりばったりが記者の旅行のいつもの伝だが、この只見線は大はずれの最たるものであった事は、薄暗くなる頃、終点大白川についてダメを押された。
 車中の弁当や『のしいか』位では、すでに北山となっている腹に、今夜は終点の静かな宿に泊まって、明朝、始発で小出まで出て新潟に朝のうちに入れたらの予算だったのが、飯能の名郷地区よりも人家の少ない村が終点の大白川、なるほど名の通り豊かな水量の川が白いしぶきをあげて駅の下を流れている。
 上流のダムを掃除するために時々水門を開けるらしいが、その時には急に水量が増すので警報のためにサイレンを鳴らす、と掲示がしてある村のメインストリートには丸通と農協と、タバコとわずかの飴・菓子、日用品を売る雑貨屋があるだけ。
 それも店に暗い電灯が一つしょんぼり点いているだけで人の気もないし、村中真っ暗でヒッソリ、とても飯を食う所も、無論宿などなどある訳はない。
 『こういうところを見るのも話の種だ。おそらく飯能の人でこんなところを訪ねる気の人もいないだろうが、また見たことのある人もないだろう。それを私たちは見たんだから無駄でもないさ』、夫婦はお互いに慰め合って寒さに肩を寄せ合いながら石ころの道を駅に引き返した。
 駅の付近の鉄道官舎には、駅から官舎の戸口々々に枕木を鳥居型に連ねてあるのは1年のうち、半分近い積雪期の通行のためと分かったが、その積雪も昨日まであったような佇まいであった。
 来る途中駅で三両の箱が一両に減らされたが、帰りはその一両も乗客は道具の袋を持った大工さんらしい人が2人、釣り師らしい二、三人、それに私たち夫婦くらいのもの、途中ダム工事の基地らしい駅から巨大なミキサーやブルドーザーを積んだ貨車を連結して約1時間かかって小出の駅に戻った時の乗客の合計が30人もあったろうか。
 小出の駅前の旅館に着いたのが9時。 玄関にはいっぱい履物が並んでいたが、それはオトリの履物だったのか、他に客がないらしい。
 小娘の女中は愛らしく親切であった。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?