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信心ごころのない信心

コラム『あまのじゃく』1958/5/9 発行
文化新聞  No. 2895


心洗われた身延山でのひと時

    主幹 吉 田 金 八

  私は先日日蓮宗の団体で身延山にお参りした。もちろんそのことは小紙の記事になったが、帰ってから知人に会うと、「よくそんな信心ごころになりましたね」と言われた。
 私は別に信心と言うほどのものではなく、ただ、気の置けない人との道連れで、団体の後をくっついていく旅行が、誠に気楽なことから思いついたまでで、先達の人には悪いかもしれないが、不信心な気持ちは変わらない。
 しかし、先達としても、たとえ不信心者であっても行を共にする者が一人でも多いことは望むところかも知れない。
 先年、永平寺と高野山を同じ頃に尋ねたことがあったが、これは縁がなくて宿坊に泊まらなかったが、私はこうした寺院、宿坊で一夜を過ごすことが何となく好きである。
 戦後あまり経っていない頃、四国の善通寺にも一泊願ったことがあるが、この時など正月の頃で、信者の参拝の時期でなかったのと、私も一人旅だったので大きな客殿の、十何条畳の部屋に一人で寝かされて、夜に小用に起きても勝手がわからず、寺の人たちのが居るのは遥か彼方の建物で、森閑とした広い廊下を、便所を訪ねて行くいくときなど寂しい程であった。
 朝の食事も膳の上には汁一椀、干し魚がひと皿と福神漬けだけ、ご飯は大きな櫃に山のようで「ご給仕は致せませんから、ご自由に」と会釈して置いていったのを静かに平らげたものだが、こんな寺院のさっぱりした扱いは、私の性にあって好きだ。
 先ごろの身延の宿坊もこれに変わらず、私の期待した通りであったことは愉快であった。
 お寺は金儲け主義で何でもお金を取りたがる、などよく言われる悪口だが、お寺でも総持寺とか、永平寺、身延山などは(あんまり多くは知らないが)、一流一派の総本山の風格は十分で、末寺や大檀家にはこれっきりというほど冥加金を割付けるかもしれないが、一般の参拝客などに対してはお賽銭を入れる箱すら目立たないほどで、至極物欲し気な所がないのはさすがである。流行り神様や寺院で著名なところは、参道の両側に土産小屋が軒を並べて『寄ってらっしゃい、買ってらっしゃい』と、しつこく呼び込むのが通例だが、身延山などそんな気配もないのは嬉しかった。
 私は日蓮聖人の『法華経のみが真の仏教』と言った自信に満ちた態度が好きである。
 彼の風貌も西郷隆盛に似て、私の最も好きなタイプである。私は日蓮宗がどんなものか、日蓮の行状記なども身延山の欄間にかかった絵物語の程度しか知らないが、彼の一生を貫いた救世の自信、時の政府に自己の抱懐する治国策(当時の政治は仏教と一体)の採用を迫って已まなかった勇気と自信には敬服するものである。
 私は現在、毎日の仕事に追われて、宗教とか哲学とかに首を突っ込む余裕のない俗人で、健康は医学に、精神的な安心は自分で割り出した哲学に頼って日蓮聖人の百分の一くらいの自信を持って、毎日を送っているから、盲目蛇の類かもしれぬが、安心立命の境地を体得している積りであり、家族もこの親父を神仏以上に頼り崇めている(と私だけは思っている)から神仏には用なしである。
 しかし、もしそんな気持ちになる様なことがあったら、私が第一番に読みたいのは日蓮と西郷の伝記と著述であると思っている。
 そんな平素の気持ちが日蓮宗の誘いで身延行きに加わった訳だが、来てみていささかも裏切られた気持ちはない。 昔の人は代参とかで、各地の神社仏閣に参籠、宿泊の機会が多かったが、今はこの習慣は段々寂れている様に思われ、熱海や伊東に行って目のはだかるほど取られて、眠たいような芸者の歌や三味線を聞かされるよりは、山奥の寺院の宿坊で簡素清潔な待遇を受けた一夜を過ごすことの方がどれだけ面白いかと思う。
 私は何宗を問わず、今後機会を求めてはこうした講中に加わって一通り各地を歩いてみたい気持ちにある。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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