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農業国策の転向

コラム『あまのじゃく』1957/2/8 発行
文化新聞  No. 2452


「農」より「工」への方向転換を‼

    主幹 吉 田 金 八

 県下の公立高校の入学志願申込みの締切り状態を見ると、農業関係の学校は定員に満たないものが多い。 
 普通高校はどんな学校でも12割から15割と狭き門であるのに、農業高校は「おいで、おいで」をしても一杯にならない。これは今後ますます傾向を強めていくに間違いない。
 農は国の基だとか、食料自給自足とか、百姓にはおべんたらを言っているが、百姓ほど馬鹿らしい仕事はないと百姓の子弟自身が割り切って、農業以外の学問技術を身につけて生きて行こうとする訳である。
 最近、農家に耕運機その他、動力機械がドンドン利用される様になったとはいえ、しかし、大部分の作業は肉体労働で、他のいずれの産業に比べてみても農業の世界くらい進歩していないものはない。
 肥料や種苗、栽培法の改良進歩で、昔より何倍もの収穫を挙げられる様になったとか、日本の米作農法は世界一だとかの手前味噌が時折新聞に出ることはあっても、その進歩の率は神武天皇以来やって来た年月を考えれば知れたもので、他の産業の進歩に比べれば物の数にもならない。
 土台、こんな狭い国で農業立国を最近まで看板に掲げていたこと自体が、すでに頭がいかれている証拠で、農業が土地を基本に成り立っているものである以上は、日本が農業で国を興す、食料の自給自足などを考えるのは無理な話である。
 今までの農業国策は、戦争を起こす時の用意を考えての国策で、その為には多少無理や歪みはあっても、農を国の基として押し立てねばならなかった訳である。
 今、あらゆる商品が生産原価の何割、物によれば何十割もの税金をかけられて消費者の手に渡っており、それでも外国製品と競争しているというのに、米だけは政府が食管会計で莫大な補助をして、高く買って安く売るようにしていても、それでも外国の農産物と価格においてかなわないというのは、日本人の営農方法がまずいのでもなければ、働きが足りないのでもなく、実に営農の基本面積が小さすぎるからである。
 耕して山に至るという風景は、瀬戸内海、四国、九州などでよく見かける所だが、こんなにまでして食料の自給自足を守る必要が、世界と手を握って有無相通じ、各々地の理を得た仕事に特徴を生かす時代にあるであろうか。
 ドイツから石炭掘りを頼みに来たり、ブラジルから農業労働者の雇い入れが申し込まれる時代に、今後戦争はしないという建前をしっかり守るというなら、何を好んで暗いうちから暗くなるまでのバカバカしい農業に、精魂をすり減らすがものはないではないか。
 政府が農林行政に莫大な金をかけても、農民にその恩恵は行き渡ることは稀で、そのほとんどは中間でどこかに消えてしまうのが実情である。
 農業共済保険金も、貰う額よりも貰うために使う金の方がいつも多いと、百姓はよくぼやいている。 
 百姓をダシに使って、百姓をしないブラブラ人間が誤魔化しているのが実情ではないか。そんな効果のない農政は一切ご破算にして、農業は農民の協力組織で自力で行けるとこまで行かせて、無駄な国費は工業方面に投じる事の方がどれだけ国の発展が能率的になるか知れない。
 すでに全人口中の農業人口は知れたもので、日本の農業国策は大きな転換に来ていると思われる。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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