見出し画像

《オートバイ》西日本一周の旅(7)

コラム『あまのじゃく』1953/5/18 発行 
文化新聞  No. 713


車は富山より金沢へ

粟津温泉《悩ましの夜》
 
    
主幹 吉 田 金 八

 ホタルイカの漁場、魚津海岸で一夜を明かし、朝は5時頃帰港した漁船を砂浜に引き上げる漁師の『エンヤコラ、エンヤコラ』という声に夢を覚まされた。
 朝食は前夜買っておいた生うどんにネギを切り込んで煮込みにして食べる。海岸に石積のトラックの裁量に来た50位の親父が、記者が天幕を収納するのを、傍で軽口を叩きながら話し込む。
 「富山県はどこへ行っても工場が多いさかいに、日本一暮らし良い土地じゃわい」と盛んにお国自慢を述べ立てる。
 事実、車を走らせ見ても水田はよく拓けて、特に灌漑用水の設備などに金をかけていることがうかがわれる。
 国道端に見受ける用水取入口の番小屋なども、モルタルに塗装の立派なものが建っている。滑川を経て10時半富山市入り。
 ここは戦災を受けて、いち早く復興したものの、その後格段の発展を見ないようで、デパート、官公庁、駅舎等は立派になったが、一般民家は応急の復興建築のままで、家並みもまばらで低い建物が多い。明るいモダンな富山市で小休止、女房が階上の百貨店街を冷やかしている間に、待合室で前報の原稿を書いたり、しばらくぶりで新聞を見たりする。
 日赤前の自動車パーツ屋でチエーンの繋ぎ駒を買っている間に、あたりを見廻していた女房が
 『お父さん面白い名前の旅館があるよ』と指出すのを見れば、なんとそれが記者の名と同じ『金八旅館』。なんでも明治維新に侠勇で名を売った名妓『金八』と言う芸者が経営した、富山で有名な旅館だとのこと。わざわざこの旅館の前の歩道に側車を乗り入れて、カメラを向ければ、宿の番頭が怪訝な顔をしてみていた。
 富山を出て黒羽紡績の工場のある黒羽を過ぎ銅器の産地、高岡市の入り口、高岡城跡の公園で昼食。
 高岡城は加賀百万石の出城の一つで、三越に冠たる名城だと説明しており、今は城内は各種運動場、動物園、図書館と市民の文化、レクリエーションの場所として遺憾なく利用されている。付近の町村の小・中学校の良き遠足地になっていると見えて、先生に引率された学童の団体数はおびただしい。
 本日、車の具合は申し分なき様子。道が次第に上り坂となり、国道に沿った鉄路を走る列車も、あえぎながら登っていたと思ったら、これがなんと石川、富山の県境で名だたる『倶利伽羅峠』であった。
 今この峠の中腹にトンネルを打ち抜こうとする国道改良工事が森本組の手で大規模に進められており、建設省の現場員の官舎が数十棟峠の中腹に出来上がっていた。
 百万国のお城下、北陸第一の都会金沢市に着いたのは午後4時、ここも富山と同じような旧式の市電が街を走っている。道を尋ねるのも面倒とばかり、市電に沿って市内を一巡すれば、難なく日本三名園の一つといわれた兼六公園を発見。
 桜田門のような昔さながらの城門に車を乗りいれたが、この城跡は金沢大学であった。引き返して向かいの公園で車止めの最大限のところまで乗り込んで車を止めた。
 女房と交互に雅趣豊かな天下の名園を見る。まあ、落ち着いた庭園だったというくらいで、記者などの没趣味の眼にはあたら名園も泣くであろう。
 6時金沢市を出発、2日続けての幕営でいささか硬くなった体を今夜はゆっくり温泉でホゴそうということで、小松市外粟津温泉を目指して舗装、砂利道と交互であるが、いずれも手入れの良く行き届いた道を最速で飛ばす。
 粟津温泉は国道より外れて約6キロ、まだ山合いに達しない平地の温泉場だが、金沢、福井から遊客が限りなく押し掛ける片山津、山代、山中と伍して有名な所である。
 とっつきの「のみや」こと小松館に宿を取る。宿泊料は普通の800円、ビールを飲みながら女中相手に話し込み、苦労話からほぐれて『温泉場の女』の内幕を聞けば、宿の女中さんは、お勝手働きは月給二、三千円の固定給だが、お座敷のほうは、無休の上に飯代も払わねばならない。だからお客の求めるままに、夜のお相手を務めて稼がねばならぬないというわけで、女中さんのほうはお国なまりを気にして「関東の言葉はさっぱりして良いわ」と言うが、こちらに言わせれば京訛りを多分に含む北陸の言葉も、妙に魅力的で『良きかな』である。
 連日陽に照らされて、手首から先は真っ黒に日焼けしているが、丹前の袖から白い肌だと言って褒める30女の好色な眼差しに
『これだから北陸の湯場は忘れられぬのであろう』と思い当たった。
 記者も女房、子供連れでなかったら間違いなしに一夜の漂客になったことであろう。
 飲むうちに、『なぜ北陸の温泉場は客をして印象的にならしむるのか』の真相がわかった。
 「私も先夫との間に子供が2人あって、今の亭主もあてにならんから、宿の女中をしてまんのや。こうして奥様と子ども連れでおいでやすお客さんを見ると、子供のことを思い出します」と言う30がらみの、池袋で働いたこともあるが、お国言葉が治らないで長続きしなかったと言う、顔立ちも良い女中さんであった。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?