石灰の中にダイナマイト
コラム『あまのじゃく』1954/3/6 発行
文化新聞 No. 1185
死に体の執行部は動かず、ジッとして
主幹 吉 田 金 八
あれほどまでにしがみつきの大本山であった小林飯能市長、石井議長なども、日本セメントが今月15日までに目鼻をつけなければ、飯能工場の計画中止を言い渡したことが、最後の決め手となって、4日、小林、石井、関口の3氏が打ち連れて、顧問団に進退伺に廻る羽目と相成った。
この事は、本紙がつとに警告していたところで、小林飯能市長と石井腰抜け議長が存在する限りは、飯能市が乾坤一擲の成否をかけた日本セメントの工場を誘致は、物になりっこないと極限したことが、黙って座ればピタリと当たると自慢する高島易断ではないけれども、そのものズバリと的中したわけで、文化新聞の論調に共鳴した市民とすれば『だから言わないことではない』と言いたいところであるが、これら市長、議長の大本営発表を『まさかそれほど無力でも無能でもあるまい』多少の信を置いた一部市民にとっては、まさに『天皇の泣き顔放送』と同様の青天の霹靂であったろう。
本紙がしばしば警告した通り、日本セメント工場誘致の挙町運動を妨げた者は、萩野、大塚氏等の影響などは、ほんの一部分であって、最大の理由は小林市長の無為無策、その日暮らしで、ほころびを繕っておりさえすれば、何とかなろうというような、無責任・無誠実な施政と、石井議長が市議会の代表者として市民の世論の赴くところを確実に掌握することなく、一部の誇大妄想患者や時代感覚において1世紀ほどもずれのある人たちの言葉に動かされて、日本セメントと元加治分村とを無理に結びつけるような下手な方向に議会を誘導しようとした失政の連続の結果であり、出来得べき日本セメントの工場をあたら3千万近い市費を乱費した後、追い払うような結果を招来してしまった。
記者が残念に思うことは、これらの人たちがもう少し早く自己の不明を悟って、まだ手の内に若干の海空軍を持っているうちに、総司令部の更替を決意したのならまだしもであるのに、虎の子の海軍は全滅、空軍は練習機のみとなってしまい、大阪、東京は空襲で灰となってしまった後に、手を挙げたのでは遅すぎたという事である。
日セでは3月15日かぎりという事を文書で市長宛宣告してきた。
余すところ10日しかない訳で、事ここに至るまで市民を欺き引きずってきた小林市長、石井議長の罪は軽からぬものであると言わねばならない。
しかしこれも『参った』と頭を下げた以上、攻めてみたところで始まらない話で、問題はこの事態をどう収拾するかである。3千万近い市費を失政の当事者責任と言ってみても、負う訳もないし、結局はこれらのお金を死に金にするか、生き金にするか、市民の良識に待つより他ない。10日間以内に最悪事態を好転させることは、常人技では困難とはいうものの、適当な人物が至誠を持って当たれば、必ずしも不可能とは言えまい。
この際、最も重要なのは市議会の動向である。飯能市議会も、筆者がしばしば言う如く、決して健康明瞭な在り形ではなく、これも当然今までに改変されなければならなかったものが、石井議長などの噛り付き根性に災いされて、解散総辞職の機会を逃し、補選に次ぐ補選という不自然なあり方で、つぎはぎだらけの不様な姿体を晒している飯能名物の優たる存在であるが、たとえ知事のご命令という民主主義の軌道からは外れた言い方だったが、曲がりなりにも元加治分村を始末をつけようとしており、一応は議員連中の任務は終わったのであるから、この際セメントを何とかなどという身分不相応の欲をかかずに、有終の美?を飾ってもらいたいものである。
日本セメントを手伝うなどという気は捨てて、妨害をしないように身を縮めていてもらいたいものである。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】