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本社の写真製版ついに完成

コラム『あまのじゃく』1957/10/27 発行
文化新聞  No. 2706


神武カメラ⁈ を駆使

    主幹 吉 田 金 八 

 今夏来設備と研究を続けて来た本社の写真製版設備も最近に至ってどうやら亜鉛凸版だけは紙面に載せられる様なものがボツボツ出来出して来たかと思ったら、10月23日に至って網目写真版も結構な作品を完成するに至った。
 10月24日号に載せて、読者とともに快哉を叫びたいところだが、生憎その写真は高萩小学校の新築校舎で、日高町支社が同校落成記念特集ページにと注文のあったものなので、紙上発表が幾日か先になるので、自慢の作品をお目にかけられないのが残念であった。
 この写真製版の設備は県下にはおそらく埼玉新聞社にある位で、他にはどこにもない筈で、特に新聞とすれば記事以上に物を言う写真が載ると載らないでは、紙面の体裁はもとより、読者への迫力が全然問題にならないことからして、是非とも欲しい設備である。
 県下の有力紙として特異な存在を誇る本紙としても、何とか写真製版の自給自足を図って、今までとすれば3日目でなければ写真版は載らない、つまり第1日に撮影、現像・焼付した原稿を第二日目の朝、東京に通う学生に持たせてやる、強いて頼めばその日のうちにも凸版にならなくもないが、それでも持ち帰った時間にはすでに翌日の新聞は印刷にかかっている。勢い3日目ということになる。
 これでは日刊紙とすればニュース記事と大幅にずれてしまうので、骨を折って写真を載せてやろうと言う意欲が失せてしまう。これが自家製版ならば、午後4時頃までの撮影なら直ちに暗室に持ち込んで現像、焼き付けに30分、製版に1時間を要したとしても、充分翌日の新聞には記事と一緒に載せる事が出来る。街の出来事が翌朝には大きく写真となって出るという事になれば、読者が相当ワッと來るであろうことは間違いない。
 何とか写真製版を自家工場でやろうと言うのが永い間の念願であった。そのために今高校浪人である次男が、まだ中学生のころ、夏休みのアルバイトに池袋の製版屋に一か月程見習い工として通わせた。
 依頼、機会がある毎に設備に関する資料と技術の研究を続けてきた訳だが、本年の初夏に至って乏しい予算で中古の機械を購入、水道、ガス、下水、電気等の暗室作業場の付帯工事を、なるべく金をかけず、素人大工、素人左官で完成させた。
 これらの設備を金に任せてやれば120万円位かかるらしいが、当社のはその10分の1を僅かに上回るくらいの経費しかかかっておらず、これで果たしてモノになるのかという疑問は、次男と私を除いては社内の誰しもが抱いていたらしい。
 面白いのは製版カメラを売った材料屋さんまで、「これはまあ博物館ものですよ」 と保証をしないことで取引した品物だけに、未だに子供に材料薬品を買いにやると、「あの機械で使えますか?」と訝っている状態である。
 その博物館モノのカメラも、だんだんと使用してみれば、操作の能率は29年式の自動車と最近の高級車の違いはあっても、走ることにはいささかの変わりもない。100万円の自動車なら100km出してもハンドルに不安がないが、古い同車だと50km以上だとガタつくといった程度の差し替えはあっても、元々古い車だから早く走れないと思い込んでいるから、それだけ注意をするから、反って安全で事故を起こさないという利益がある。
 新聞写真は粗目で単一なものであり、広告やカットは白黒の単純なものだから、30年前の中古自動車でも結構使えるという自信は、購入の時から私と次男は堅く抱いていたが、最近に至ってやや会心の作品が出来出してきて、この自信はさらに不動なものとなった。
 東北のある大きな印刷会社が120万円もの新式設備をして、従業員を3ヶ月もそのメーカーの養成所に送って研究させたが、まだモノにならないという話も先だって東京の業界で聞いた。これに比べれば我が社の計画は全くトントン拍子と言いたい位で、せめては飯能の市制祝賀のときに写真を間に合わせたいと思って努力したが、まだ技術も設備も生乾きで、間に合わなかったのは残念と言えば言える。
 この技術は、最近の印刷文化の限りない進歩で、おそらく極まるところを知らないくらいの高度のものであるが、我が社の要求する最低の範囲でも、これも他から技術者を雇ってやるとなれば、二万五千円位を払わねば来ない。また、家族か社員の誰かを仕立てるにしても学校だとすれば短期大学2年、それに実地の訓練、おそらく3、4年は間違いない。東京の製版屋に徒弟で入ったとしたなら、原版洗いとか朴炭磨き、台木付という追い回しに、3年も5年も使われて、肝心なカメラの操作は古参の職長が握ってから離さないから、10年の年季を込めねばおそらく一人前の職人技術者にはならないのではないか。徒弟でたたき上げるには全てのコツを勘で覚えるわけだが、技術入門の書籍が全てが科学で解説してあるので、残念ながら大正教育の私には難解でとても手が出ない。幸い、次男がアルバイトでの見聞と、高校での化学と数学でこれらを順次に解決してきた訳で、新聞で自分の子供を褒めるのは読者には聞き苦しいし、子供も嫌がる事だが、実際今度の成功も次男のたゆまざる研究の成果で、予備校から二時ごろ帰宅して、遅い昼食をかき込むと、薄暗い製版室に閉じこもり、指の先を薬品で染めて、失敗に失敗を重ねながら、一歩一歩前進して行く、家中の夜の食卓が終わってもまだ作業室から出てこない。
 「これから夜中まで受験勉強では体が堪るまい」と女房が心配するほどだが、本人は好きなことだから、それほどには応えないと見え、むしろ悦んでいる位であった。
 私も1日中受験勉強で机にしがみついているよりも、一種の写真道楽のようなもので、むしろ気分転換で、学業にもプラスだと信じている。しかもこれを習得すれば立派な技術者として立つこともできれば、新聞社としても現状では1日2時間くらいの作業量しか仕事がないのだから、子供のアルバイトで間に合えば、ことさらの人件費は省けるわけで、全く一石二鳥ということができる。
 ともあれ、前記の高萩小学校の写真を成功第1号として、今後は豊富に写真を駆使できるようになったことはまず経営者として、私の英断と次男の努力、助言者として、いろいろとヒントを与えてくれた前毎日新聞記者の増田君の令息(写真大学卒)の功に帰すべきものである。
 もちろん現段階の成功の程度は網目写真凸版の初歩であって、前途克服すべき点は遠いこと限りもないが、神武製版カメラ(現在市販品ならば15万から30万するものを、わずか一万六千円で購入した。おそらく写真製版が日本に渡来した初期のもの)で、一応は形だけでも出来るということを実証したことは、私としては全く愉快に堪えないので、我が社印刷陣の1エポックである製版設備と、技術の一応の完成を報告して、読者に悦びを分かつ次第である。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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