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桃色革命の戦士

コラム『あまのじゃく』1956/5/25 発行 
文化新聞  No. 2173


色も欲も自制のままに‥責任?

    主幹 吉 田 金 八 

 料理屋や芸者があるから、年甲斐もない旦那衆が茶屋酒に酔いしれて家産を使い果たしたり、青少年が不良化するのだから、こんな世の中の為にならぬ商売は、永久に休業して貰いたいといった意見が一主婦から寄せられた。
 借金を質に置いたり、女房子供を泣かせてもパチンコを止めぬヤクザな御亭主を持つ貧しい主婦や、農協の金を使い込んだり、家屋敷を抵当に沈めて飯能の芸者に熱を上げる旦那を持った農家のお大尽の奥方の言いそうなことである。
 しかしどう見てもこのご意見はいささかヒステリックに過ぎる様な気がする。そしてまた、あまりにも他力本願であり、自己の非力を告白するだけのものではあるまいか。どうせ世の中には命を支える有益な米も実れば、 命を縮める毒草の花も咲く。その毒草さえ使い方によれば貴重な薬にもなると言うものである。
 家庭の外に酒と女がなかったならば、さぞかしどこの家庭も平穏無事で外見平和になるであろうが、さてその恨みの酒と女が、天の岩戸以来ついて離れないのは不思議である。
  尤もこれがなかったなら古今東西の名作と言われる小説も音楽も生まれなかったであろうし、犯罪も戦乱も起こらず、日本歴史も東西世界史も何等波乱も区切りなく、ただ生まれて育って死んだ、というだけで小学1年生のうちに全部教程が終わってしまうだろう。
 料理屋も芸者も特飲街もバクチも街娼も、時代の変遷と時の政治の在り様で姿かたちだけは変えるであろうが、世界中どこでも、どんな時代でも絶対になくならない事は筆者が断言するまでもなく、歴史が証明する。売春禁止の法律が制定されたが、こんなもので売春を営業とするものが無くなるだろうと考えることは、日本の婦人層の世間知らずのおバカさんであることを表明する以外の何者でもなく、今度の法律が業者の反対で骨抜きになったからそうなるのではなく、骨付きのどんな完璧なものをこさえて見たところで、駄目だということは文化新聞の社長が太鼓判を押しておく。悔しいと思う方はこの新聞を3年、5年保存しておいて、その結果と照らし合わせて見ればカブトを脱がざるを得ないだろう。
 これら社会の悪徳と腐敗の原因になるような困った物も、人間の本能の必要から生まれて来ただけに、根強い存続力を持っている。ちょうど厄介な水虫がどんな療法を用いても根絶やしにならぬと同じ事である。だからといって人間本能の求めるがままに野放図に放任しておけとか、社会の秩序の品位を乱すのも構わず置け、と筆者は言うわけではない。適当にはこれを制限し、禁圧することの必要を認める事にやぶさかではない。特に売春やトバク、麻薬等の害悪を政府がこれを保護公認し、果てはこの上前をハネるようなことには絶対に反対である。
 こうした意味から言えば、現行のこれ等に対する取り締まり法規は丁度湯加減という程度ではないかと思われる。今度の売春禁止法の様に、前借で女を縛ることを許さない、営業としてこれら女の働きを搾取する事の出来ない程度の制限禁止が適当なのではないだろうか。
 もちろんこれ等にも適当な抜け道が考案されて、法律がツンボ桟敷に押し上げられてしまい、取締まり官憲が適当に甘い汁を吸う温床になることは間違いあるまい。これらの害悪を最後の一線で食い止めることが出来るか出来ないかは各家庭の構成員の知性と自覚の問題で、心無い鳥獣ですら、毒草や危害を本能的に判別しているではないか。
 まして、犬や猫ではない人間様がこれの見分けがつかぬというのは、よくよくの馬鹿で、こんな馬鹿は早く身を滅ぼして、社会から消えていく方が地上が整理整頓されることになる。
 世の中が料理屋や芸者屋で埋まったところで、心ある者は自分の財布と家庭のことを考えて近寄らないであろう。月給3万円以下の人間は芸者を呼ぶ機会は月に1度も恵まれまい。ましてや五反百姓においておやである。
 そうした階層で茶屋酒や芸者の顔を見ようとするには、農協組合長になるか市会議員になることである。これらの役職になれば身銭は出さずをとも年に十回や十五回はその恩恵に浴することが出来る。
 しかしこれとても、見つけない事を見、嗅ぎつけぬ白粉の匂いに病みつきになって、手銭の方もたまには弾むことになるから、あと腹のいみじさを考えて、知性を回復するのが大部分だから案外心配はない様である。
 記者の親父は死ぬまで毎晩料理屋に行かねば気のすまぬ方で、月末には畑屋の付けが束で届いて來る方だったから、その余恵(?)とでもいうか商売宴席はしばしばだが、自分で勘定を払うことは滅多に無い。料理屋には有難くない客の部類でありながら、料亭にも芸者屋にも懇意である。
 特に葉山主人などは本紙にしばしばの寄稿家で、花柳界発展即飯能発展論者だが、記者は山岸氏にも『芸者は我々には縁なき衆生』と言い校友会などでも『芸者はもったいないからなるべく少なく』と憎まれ口を聞く方である。
 だからこの記者の所論は決して料理屋芸者の肩は持っていない事はお分かりになって戴けよう。記者は飯能市が料理屋や芸者屋で埋まっても構わない。新井清平さんや及川愛吉さんのように、長と名がつくことを事毎に押し付けられ、おそらく宴席に寧日なき立場なのに、そうした空気をふんわりあしらって惑溺しないこと、飯能一の良きパパである人達もある。
 世の中には、そうした金の使い道があればこそ革命なんて血生臭いことなしに、地方の小財閥が新陳代謝するという効用はある。名栗の鳥居さんが永劫末代鳥居さんで君臨していたのでは、息苦しい次第ではないか。言い方に依れば、芳蝶、紅葉、その他飯能の名妓達は桃色革命の戦士とも言える。
 投書の一主婦の考え方は右翼の台湾政府、左翼のソ連政治に相通じるものがある。しからば台湾にもモスクワにも料理屋、芸者屋、赤線区域に類するものがないであろうか。記者はこの点ではアメリカ流の自由主義に傾倒する。


コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。

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