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徴兵検査の思い出

コラム『あまのじゃく』1959/2/15 発行
文化新聞  No. 3169


命の恩人! 元軍医総監寺師先生

    主幹 吉 田 金 八

 昨日の本紙紙上に武蔵町の寺師医師が火の番をされた記事が出ていた。
 町内の決りで順番に回ってくる火の番の役を、人手が間に合わなかったり、他人に頼めば三百円、四百円の手間はもったいない、と家の者が出る場合が普通だが、かつての陸軍軍医総監、階級も中将を戴く寺師先生が、77歳の御老体で『火の番』をされた事は面白いニュースであるが、野口支社長が寺師先生にインタビューをして、感想を伺ったことも機宜を得ており、実に良い記事だった。
 野口記者も新聞に従事して日の浅いせいもあるが、記事の狙いが町議会の議事とか町の有名人の行動・消息の狭い部分に限られて、同地方の読者とすれば、それはそれで良いかも知れぬが、もっと庶民の生活につながった問題に焦点を当てた方が良くはないか、野口記者も一人身たが、武蔵町に世帯を持っているのだから、町の空気や人々にもっと馴染んで、同町の読者が朝一番に文化新聞を読まずにはいられないような記事を書かなければ不可ないと、本紙編集部では注文をつけている訳だが、この寺師先生の記事はその注文にピッタリの良い記事だと思う。
 ここで話題は例によって、わたしの自分のことになるが、私が今から30年前飯能第一小学校で徴兵検査を受けた時の主任軍医官は、おそらくこの寺師先生ではなかったかと思う。
 その時の事は、私の運命の岐路となった検査結果だけによく覚えている。
 当時は行政の府県区域と同じで、軍には隊区というものがあり、飯能は麻布連隊区で寺師さんも麻布の軍医官だったと思う。
 この徴兵検査の時、記者は同じ受験者の中で背丈、体重でも一、二番という、外見上は堂々たる体格だったので、身長や体重を測定する兵隊さん達からは、良い体だ、これでは甲種合格間違いないと褒められて、嬉しいような悲しいような、悲壮そのものの気持ちで主任軍医官の前に立った。
 その時の寺師さんは、色白の菊五郎そのままの美丈夫であって、柔和な眼差しが今でも記憶にある。
 記者の脈や胸部を聴診して、おもむろに言うことに「君は心臓が悪い。弁膜に障害があるから酒を飲むと1年と生きない。どんな風な障害かといえば心臓から血を送り出す弁がドッキンドッキン開閉するのが完全に作用しないで、閉じた時血が漏れるのだ」という風に言われ、この診断で隣に座っていた連隊司令官から『丙種不合格』と判定を下された。
 その当時は軍縮時代で、実際に兵隊に取られるのは100人のうち20人ぐらいだったと記憶するが、記者はまるっきり合格と思い込んでいただけに、『丙種』でがっかりしたものでる。
  兵隊に取られると2年間絞られる訳で、取られなくてこんな幸運はなかった訳だが、当時の教育が染み込んでいると言うのか、本当に振り上げた拳のやり場のないような、本当に残念に思って気落ちした事は、今から思えばおかしい様なものである。
 このことは同じ受験者たちの口から知人間に広まり、「酒を飲むと1年生きない」と冷やかされたものである。
 ところがそれまで禁酒論に縛られて酒を飲まなかったが、そんなことが機縁で酒を飲むようになり、丁度悩み多き世代でもあり、いわゆる焼け酒などを飲んで苦しがったりしたこともある。
 ところが、酒を飲んだために弁の開閉がスムーズになったものか、その数年後に肋膜はやったが、心臓の方は何の障りもなく精神的心臓では100人に勝り、肉体的心臓でもこの間のスキー大会で増島収入役と比べて勝るとも劣らぬ状態で何等病気もなく、生死の不安など考えたこともなしに今日に至っている。
 大東亜戦争の時は、むしろ戦地に行ってみたくて、赤紙が来るのを望んだ位だが、丙種ではその望みはなく、軍属を志願して大陸に渡った位である。
 戦争もあの深刻な敗戦に終わり、赤紙で取られたとすれば半分くらいは死ぬ方の確率もあった訳で、今にして思えば徴兵検査の時に丙種にしてもらった寺師さんは命の恩人のようなものであり、この時甲種だったとすれば、私の運命もどんな風に変転していたか判らないと思う。
 こう書くと寺師さんは医者としてヤブ医者の様な事になるが、その当時から私は運動が嫌いで、文学書など読み耽り、なりは大きかったが、身がブヨブヨで100mを駆けると真っ青になってブッ倒れるような意気地のない心臓だった事も事実であり、この検査の判定に甘んじて、自分の体はそんなに丈夫な方ではないと思い込んでしまったので、お酒の方は別として無理をしない式の人生を歩んだ事にも依るであろう。
 その後も自分の運命に関係のある医官として、新聞に寺師さんが航空医学のことで新研究をしたとか、何かの学校付きになったという事などを見ると、懐かしくその風貌を偲んだものである。
 寺師さんが人手のないまに火の番の役をご自分でなさったという事も、軍人らしい潔白さと好意が持て、さらに『宮中のご宴会に召された当時のことを、拍子木を叩きながら思い出した』などの述懐も、かつての華やかさと思い合わせて感慨無量であろうと思った。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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