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ふた昔の距離

コラム『あまのじゃく』1953/8/6 発行 
文化新聞  No. 846


見事な渓谷美の《有馬渓谷》(写真は別の場所です)

    主幹 吉 田 金 八

 有馬林道の竣工式に招かれて、5日午前11時半オートバイでゆく。
 飯能よりの参加者は9時20分頃の乗合バスが便利だとの案内であったが、こちらは何分間でも仕事をしてからと思って独行する。
 もう第1会場の方は終わってしまった時間だと思ったから、第2会場の東小学校に立ち寄ってみたら、まだ第1会場の式典が終わっていないとのことで、有馬谷に車を乗り入れる。
 この道は青年時代に身体を壊して半年余りこの山村に病後を養ったことがあったが、毎日電信柱1本宛の間だけ散歩の距離を延ばして、ついには落合まで4キロ余りを歩程に入れた思い出の渓谷である。
 今日は晴れの式典があるためか、林道の補修も良く行き届いて、車を走らせるには快適であった。
 式場の落合という部落は、炭焼き小屋が自然と部落を形成したようなもので、四、五戸の見すぼらしい小屋が谷合に散在しており、高級自動車が数台連なってきたので、子供たちも珍しい顔つきでポカンと見とれていた。
 今日竣工式を挙げる林道は、この落合より800メートル近くの奥まで行っており、式典後県の役人どもは自動車で視察してきたが、落合までの渓谷美と比較にならぬ美観で、大いに天下に宣伝の価値があると口を揃えて讃歌していた。
 記者は落合より上流は、やはり青年時代に本社の小川、豊岡の繁田四郎、小瀬戸の須田省一郎の各氏と同道で須田氏が、町有林の植林でこの辺の地理が詳しいというので、同氏を道案内に秩父に抜けようと踏破したことがあった。その当時は道なきところに道をつけ、といった有様で、谷川を道にして、ジャブジャブ進んでいったものであったが、その道が大型トラックが通行するようになったことを思えば、感慨無量である。
 さらにまたこのときの旅行は山中で雨に遭って、霧に巻かれて方向がわからなくなり、評議の結果、半田、須田両兄の安全説が通って名栗村に引き返すことになり、それらしき方向に水流に従って戻ったのだが、なんと秩父の浦山村に出てしまい、米を求めようとしたら村人が、「米のあるのは村長さんの家の他二、三軒だんべえ」と、ほとんどは稗、粟等を常食としていることを聞かされて、一同びっくりしたことなども思い出される。
 それより秩父に出て中村屋旅館に泊まったら、「学生の登山旅行」とあって、扇風機などを仕掛けて大歓迎された事も懐かしい一つ話となっている。
 それから徒歩で正丸峠を越え、吾野の町分の長屋門の宿屋に泊まって、ハイヤーを改造したバスで飯能に帰着したことがあったが、その有馬林道に大型トラックが通り、正丸峠も40人乗りのバス、近くトンネルで電車も通りそうな勢いであり、交通機関と道路の発達で随分と便利なったものである。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

 


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