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音楽とジンクス

私は正直なところ、あまり俗っぽくない人間だと思う。有名なアニメやゲーム、漫画、アイドル、芸能人…etc 存在は認知している、認知はしているが、本当にそれだけなのである。

皆が熱狂しているコンテンツについて話題を振られても、
あぁ、名前は聞いたことあるよ、とか、
あぁ、最近流行ってるよね、とかそんな感じの極めて薄い感想に留まることが殆どだ。

俗っぽくないのがイイことだとも偉いとも思わないが、流行に敏感なのが正義だとも思わない。
というか基本的に全ての事象/事物は等価値であり、そこに付随する価値観は社会の、あるいはその人個人のジャッジの結果でしかない。
とりわけ趣味において貴賤などないので、各々存分に楽しむべし。


前置きが長い。

音楽の話をしよう。
私の好きなものの一つに、クラシック音楽がある。
ちなみに好きと詳しいはイコールではない。
浅学な身としては、あまり声を大にして言えない趣味の一つでもある。

仮に大々的にクラシック好きです!と公言したとして、何かの間違いでその道の人に「へえクラシック好きなんだ!シューマンの和声と対立法がうんちゃらかんちゃら、フランス音楽の新古典主義がどうたらこうたら、でも僕個人としてはバロック期の方がべらべらべらべら、で君はどう思う?」なんて聞かれた日には、私は相手に「黙れ」と返してしまうだろう。
それくらい手法や歴史については疎い。
そんなん知らねえ。好きだから、耳ざわりがいいから聴いているだけだ。双方の精神衛生上、私のクラシック好きは黙っておくのが吉であろう。

難しい話は置いておくとして、作家然り音楽家然り、偉人のエピソードは面白いものが多い。
そのうちの一つが、第9番にまつわる不吉な噂についてのものだ。クラシック作曲家にとって、9番目の交響曲というのは鬼門である。
なぜ鬼門なのかというと、第9番は不吉なものだからである。ベートーヴェンは『交響曲』第9番を発表した4年後に亡くなり、ドヴォルザークは『交響曲』第9番「新世界より」が最期の交響曲となった。第9番を作曲すると死ぬ、音楽家の間ではそんな都市伝説がまことしやかに囁かれていたとかいないとか。

私の好きな作曲家であるグスタフ・マーラーもそのジンクスを恐れ、9番目の交響曲に番号を付けず「大地の歌」というタイトルをつけた。その後も特に何事もなかったため、実質的な第10番目の交響曲を第9番と銘打って発表するが、翌年亡くなってしまう。奇しくも交響曲第9番が彼の最期の作品になってしまったというわけだ。




このエピソードを思い出すたびに、思念と言霊の有する引力について考える。
人の言葉と思考は、確実に力を持つのだろう。
一つの物事に対して大勢が共通の認識を持てば、それはその通りに輪郭を描く。思念と言葉はポジティブな方向にもネガティブな方向にも働く。特にネガティブな場合については、世界的な呪術の歴史が答えを物語っているだろう。

一説によると人間は否定形の思考ができないらしい。〇〇になりたくない、と思っても無意識のうちになりたくない方向に引っ張られてしまうのだとか。なりたくないものについて考えるより、なりたいもののことを考えた方がいいというわけだ。
つまるところは、『何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れ』ってことか。
ありがとうルフィ、気を付けるよ。

……
………
というかこんな時間まで私は何をやってるんだ。
寝よう。

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