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劣等感との闘い(ジュニア〜中学生編)

noteを始めてみようと思います。
自分の歩んできた人生、サッカー観、指導観など誰かのお役に立てたら嬉しいです。

今回は自分の選手時代の話を文字にしてみます。
簡単な経歴から話をします。

【ジュニア時代】
小2〜小3   FCゼブラ(神奈川)
小4〜小5   浦安JSC(千葉)
小5〜小6   金田FC(滋賀)

【中学、高校時代】
中1  京都紫光クラブ(京都)
中2〜高3  京都パープルサンガ(京都)

【大学時代】
流通経済大学サッカー部(茨城)

【社会人時代】
22〜24歳 アローズ北陸(富山・JFL)
25〜26歳 カターレ富山(富山・J2)
※26歳で引退

こんなサッカー人生(選手)を歩み、今はサッカーコーチを仕事としてサッカーと共に生きています。
よくある『サッカーしか知らない人間』です。
社会はあまり知りません。
それでもサッカーを通じて学んだことやコーチとして学んでいることを自分だけのモノにせず、少しでも誰かの役に立てればと思い発信しています。

経歴だけ見ると一見『すごいね』と思われたり言われたりもしますが、実情は違います。
タイトルにもある通り『劣等感』とずっと闘ってきました。
その話を今回はしていきたいと思います。

まず最初の劣等感は『Jリーガーの息子』という看板を背負いながらサッカーをしてきたことです。
父は偉大なサッカー選手でした。
Jリーグ元年のときにはベテラン選手でしたが、その前のJSL(日本サッカーリーグ)で200試合出場を達成した凄い選手でした。
尊敬と憧れで自分もサッカーを始めていましたが、Jリーグのスタートと共にJリーグの価値が爆発的に上がりあっと言う間に『菅野のお父さんはJリーガーらしい』と噂が広まりました。
人によるのかもしれませんが、自分にとっては誇らしいというより恥ずかしいという想いがあったのでなるべく周りには言わずにいました。
それでもJリーグ人気がすごく一瞬でチーム内や学校内に広まり、しまいにはチーム内だけでなく対戦相手の選手や保護者にまで伝わりました。
『あいつJリーガーの息子らしいよ、さぞ上手いんだろうな』と試合前に言われることもありました。
自分の実力不足が全てですが、その噂を上回ることが出来ず試合後には『あれがJリーガーの息子の力なの?ダメじゃん』と言われていました。
今でいう自己肯定感が全く形成されることなく、プライドがズタズタに切り裂かれた感覚でした。
これが小学生時代の劣等感でした。
チームも県大会すら行けず、地区のトレセンすら入れず、自信を失うだけの小学生時代。
唯一負けず嫌いという性質は持っていたので、とにかく1人でリフティングしたり、ドリブルしたり、キックの練習はしていました。
父も母も嫌なこと一つ言わずに見守ってくれていました。
結果的にその負けず嫌い精神と黙々と何かを積み重ねる力、そして見守ってくれたコーチと両親の存在がサッカーを続けられた要因だと思います。
そこでコーチに何か言われていたり、両親にプレッシャーを受けていれば確実にその時点でサッカーを辞めていたでしょう。
ですので今サッカーを頑張っているジュニアの選手の親御さんは、子どもがどんな状況であれ『常に見守るスタンス』でいてもらいたいと思います。

次は中学時代の劣等感です。
劣等感というより絶望感の方が近いかもしれません。
簡単に言うと、病気でまともにサッカー出来なかった3年間でした。
中学生は京都に引っ越し、京都で有名な京都紫光クラブに入団しました。
ここは誰でも入れるクラブです。
1学年60人くらいいて、しかも京都府トレセンが何人もいるような強豪チームで、かたや実力も肩書きも自信もない自分にとっては場違いで居場所がありませんでした。
まずここで挫折しています。
同じような類の仲間たちと『俺たちいつ辞める?』と会話していたことを鮮明に覚えています。
ただ、当時のコーチが練習終わりにリフティングの技を教えてくれるフリータイムのような時間があり、私はその時間が大好きでした。
コーチの技を教わりに練習に行っていました。
なので毎日『早く練習終われ』と思って練習していました。
ここで小学生の時に黙々とリフティングをやっていたのが実ることになります。
ずっとコーチにくっついて技を教わり、褒めてもらうことでコーチや周りの選手に認められるようになったのです。
認められると練習や試合の中でもパスが来たり、励ましてもらえるようになり、だんだんサッカーが楽しくなってきました。
楽しいと自然とサッカーも上手くなります。
頭の片隅に常にあった『劣等感』が少しずつ消え、無心でサッカー出来るようになりました。
その時にはもう『Jリーガーの息子』と揶揄されることも無くなり、『菅野将太』という1人の人間として認められた気持ちになりました。
この経験が大きかったです。
この仲間、コーチの存在が本当に大きかったです。
そこから半年は自分の中でも絶頂期と言っても良いくらい結果を残しました。
Aチームに入り、レギュラーを取り、一瞬で京都府トレセンまで登りつめました。
ナショナルトレセンの候補まで進み、まさに『自分が自分じゃない』ような感覚でした。
なぜならつい数ヶ月前までは地区トレセンすら入れないごくごく普通のサッカー少年でしたから。

ただ、その成功はほんの一瞬で終わります。
中1の秋に病魔に見舞われてしまいました。
ある練習試合で右足を骨折し、比べるために撮った左足のレントゲンに腫瘍が写っていました。
いわゆる足の癌です。
良性なら移植、悪性なら切断。という中学生の自分にとって絶望的な説明を受けました。
絶望しすぎて涙も出なかったということを覚えています。
結局、幸いなことに腫瘍は良性で腰の骨を足に埋めると言う手術を行い病気は治りました。
今考えると骨折してなかったら発見ももっと遅くなり、さらに大変なことになっていたと思います。不幸中の幸いでした。
手術を2回行い、入院も半年。最初は車椅子で学校には松葉杖でずっと行っていました。
歩けるようになってからも2時間かけてリハビリセンターまで通い、地獄のようなリハビリを約1年。
よくよく考えたら中学生ながらよく1人で通ってサボらず頑張ったなと思います。
ちゃんとサッカーできるようになったのは中3の春でした。
つまり中1の秋から中3の春までの約1年半ほどサッカーしてないということになります。
今コーチをしているので身に沁みて感じますが中学生年代が心身ともに最も成長する時期でサッカー選手のベースは中学生で決まると思っています。
その時期をほぼ棒に振ったということは残念に思います。あの時期サッカー出来ていたら。といまだに考えてしまいます。
だから今の中学生たちにはいつも言っています。
『ミスなんかどうでも良い、チャレンジしよう』と。
それはサッカーできなかった自分からしたら、『今サッカー出来ていることがどれだけ幸せか、わかりますか?』というメッセージでもあります。

最終的に中3の大きな大会である日本クラブユース選手権(夏)に間に合い、全国大会の舞台に立つことが出来ました。
ヴィッセル神戸に敗れベスト16で敗退。
悔しかったですが、自分にとっては健康でサッカーを思いっきりできるだけで十分でした。
その後、なんとかユースに昇格することが出来ました。これも正確にはわかりませんが、病気もあって温情で昇格させてもらえたのかもしれません。それくらいコーチたちには気を遣って頂いた感覚が自分にはあります。
その恩返しをと思い、ユースで頑張ろうと思いました。

長々と書きましたが、これが小さい頃から自分なりに劣等感との闘いです。
劣等感の壁を破れずいたジュニア時代。
病魔との闘いでろくにサッカー出来ずに絶望感を味わった中学時代。
何も成し遂げていません。
それでも『サッカーが大好きで負けず嫌い』というメンタルでいることが最終的に劣等感を打ち破るヒントになりましたしサッカーを好きでいされてくれたチームメイト、コーチや両親には感謝しかないです。

ではそれを今の時代に置き換えた時に今のジュニアの選手たちはどうでしょうか?
私は今の若い選手たちはかなり強いプレッシャーを受けながらサッカーをしているような気がします。
サッカーは塾や習い事とような感覚という子も増えていると感じます。
私の場合は『Jリーガーの息子』というプレッシャーでしたが、他にもたくさんあると思います。
『プロになりなさい』『試合に勝ちなさい』『高いお金払っているんだから上手くなりなさい』そんなプレッシャーの中でサッカーしていないですか?
劣等感やプレッシャーを打ち勝つにはメンタルが重要になります。
それは『苦しみに耐えるという強いメンタル』ではなく『サッカーを楽しんで上手くなりたいと思えるメンタル』だと思います。
苦しみに耐えることは出来るかもしれないけど長くは続きません。
いずれサッカーを辞めてしまうでしょう。
それよりも長い人生という時間軸で物事を考え『続ける』ことを重点的に考えて教育するべきだと思います。
それを履き違えているコーチ、親、選手自身も多いと思います。
ぜひ、この内容を観て『こんな上手くいってない人、怪我や病気でサッカー出来なかった人でも楽しんで続けていればプロになれる可能性がある』ということを理解してもらえると幸いです。

高校生からの続きはまた次回書きます。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

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