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言の葉ノ架け橋【第6話】

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横手川君と松田さんの場合(前編)


「松田さんはもう来ないんでしょうか」
西中学校の校章が胸にプリントされた体操服。少し黄ばんできたそれを着た横手川くんが私に聞いてきた。

もうすぐ梅雨。生徒玄関前の紫陽花がきれいに咲いている。
生徒玄関と言っても、ここは適応指導教室『かけはし』。いわゆる不登校の子供たちが通う市の施設。自分の所属する学校の体操服や制服を着て登室してくる決まりになっていて、横手川君は西中学校三年生。
小学校の頃からよく学校を休んでいたそうで、学校の保健室登校や別室登校をほそぼそ続けていたけれど、中三になってから『かけはし』に通うようになった生徒。

「うーん。どうだろう。来ないね」
私はウメ子の飲み水を入れ替えてあげながら、小首をかしげた。ウメ子はぴちゃぴちゃと美味しそうに冷たい水を飲む。

横手川君は松田彩乃さんと、どのくらい仲が良いのだろう。同じ中学だから気にはなるのだろうけど。

「彩乃さん、西中に行ってるのかな」
学校には行っていないと知っているけれど、少しカマをかけてみた。
気になっている彩乃さんが中学校に行っているなら、横手川君も頑張ろうと思ってくれるんじゃないか。さっきの聞き方はまるで「会いたい」と言っているように感じたから。
でも、そんな単純なものではないか。

ところが「中学校には行ってません」と横手川君は断言した。
「え。あ、知ってるの?」
「はい。家から出てきません」

家に籠るようになってしまったことは、おうちの人から聞いている。
彼女は昨年の秋から『かけはし』に通いはじめ、半年ほど前向きに登室していたのに。横手川君と入れ替わるように、急に松田さんは来なくなった。

横手川君が「家から出てこない」と断言するのには違和感があった。心配しているような顔つきにも見えない。無表情の子ではあるけど。
「彩乃さんと仲いいの? 連絡とったりする?」
「連絡というか」
横手川君は言い澱む。
「四月から、一緒にここに来たくて待ってるんですけど、出てきません」
「待ってる? どこで」
「松田さんの家の前の公園で」
「そう、なんだ」

ちょっとストーカーみたいだね、なんて、口が裂けても言えない。ウメ子を撫でる手にその気持ちが伝わったのか、ウメ子の左右に振れていたシッポがピタリと止まり、私と一緒に横手川君のほうを見ている。

「ピンポンって。チャイム押さないの?」
「少し離れた位置から見守るのがいいと思って」
「ああ、そう」
「でも……」
ヨウちゃんが、バタバタと大きな音をたててウメ子の近くに滑降してきた。「ピンポン、ピンポーン」と本物の呼び鈴のような声を出す。

横手川君は、ヨウちゃんが降りた先に居るウメ子を見つめた。
「でも僕、思い直したんです。待ってるだけじゃダメだって」
彼の眼鏡の奥の目が鋭く光る。
「先生、お願いがあるんです」
「お願い?」
横手川君がゆっくりと私の方を振り返る。彼は、いまだにマスクをしない日はない。表情がよく分からない。背の高い横手川君に見下ろされ、じっとりと汗ばむのが分かる。この季節特有の、湿気のせいだけではない。

「食べて欲しい日があります」
それか。
「何を言ってるのか、よくわかんな」
「嘘だ」
追いかぶせるように否定された。

なぜ横手川君はそんな断定的な言い方をするんだろう。
「話を聞いてください」
もう帰る時間だから明日にしようよと言おうと口を開いたときに、ウメ子が顔をあげて、「フガフガフゴゴッ」と、いつもより大きな声を響かせた。続けてヨウちゃんが「イイヨー!」と叫ぶ。

ヨウちゃんが何の権限でイイヨと言うのか。
溜息をついてヨウちゃんを睨む。ヨウちゃんはそんなのお構いなしで、まんまるの瞳でキョトンとしている。
「ありがとうございます」
横手川君はそう言って、相談室の全開の掃き出し窓に腰を下ろした。

「ねえ、ウメ子にそんな力があるかもしれないって噂は誰から聞いたの?」
「彩乃です」
「彩乃さんから?」
「ぼくと彩乃の付き合いは、小学校からです」
横手川君はいきなり「彩乃」と呼び捨てにした。さっきまで「松田さん」と言っていたのに。

「小学校の頃は同じ団地に住んでいたので、一緒に下校して、彩乃のお母さんがパートから帰るまで公園で遊んでました。毎日」
横手川君はずっと無表情で話す。思い出を懐かしむわけでもなく。松田さんは、お母さんが再婚して、今はすぐ近くの一戸建てに住んでいる。
「晩ごはんも一緒に食べてました。一緒に食卓を囲む、気分で」
「気分?」
「あ、僕の部屋からだと団地の向かいの棟の、彩乃んちの食卓が見えるんです。だから」
横手川君は自分の部屋で一人で夕食をとる。彩乃さんの家族を眺めながら、一緒に食べている「気分」で戴くという事だろうか。
私が眉間に皺を寄せるとウメ子が「クゥゥゥン」と鳴く。横手川くんの話を真剣に聞いているみたい。
横手川君は立ち上がり、ウメ子の傍によって頭や背中をゆっくり撫でる。

「あの頃は、楽しかった。彩乃も、いい子だった」
「いい子?」
同い年の友達が使う言葉ではない。思わず聞き返す。横手川君は表情を変えず、私の顔を一瞬だけ見て「あ、」と何かに気付いたように話を続ける。

「あの頃、僕はいじめられていました。クラスの馬鹿な男に。だけど彩乃はずっと僕に優しかった。学級委員だったからじゃないんだ。休んだ時は必ずプリントを持ってきてくれたし、クラス対抗の大縄跳びも僕に飛ぶタイミングを教えてくれたし、自分の給食のデザートを僕にくれることもあったし」

ずいぶん小さなことを覚えているんだな。
だけど、そんなものかもしれない。いじわるされた小さな出来事も忘れられないけど、嬉しかったことだって忘れないんだ。そのことが心の支えになっている。

「それって、学級委員だからじゃないですよね」
「どうかな。あっ、いや、うん。そうだね」

そうか。優しくされて嬉しいというだけではなく、それは恋心なのかもと今更ながら気づく。
ただ何か、少しだけザラリとする違和感がどうしても拭えない。

「中学でも同じクラスになれました。中学はクラスが多いのに一緒になるなんて、何かの奇跡です」
横手川君はずっとウメ子を撫でながら言う。
ウメ子も横手川君を見つめたまま、グルルルと鳴く。聴いているよ。もっと聞かせてと言うように。

「部活も同じ水泳部。クラスの係も同じ。バス旅行も同じ班。僕たちはいつも一緒に過ごしてきたんだ。小学校のころの晩御飯みたいに」
「そう、なの」
「なのに、二年の夏から彩乃は学校に来なくなった」

彼女は中学二年の春に流行病にかかってから、なかなか体調が戻らず塞ぎがちだったという。学校に行ったり、行けなかったり。いわゆる五月雨さみだれ登校という感じだ。

そして、二学期から完全に行けなくなってしまった。
担任の先生が早いうちに「かけはし」を紹介し、勉強の遅れが心配なら志望校に合わせてしっかり指導すると、打ち合わせをしたうえで登室するようになった。

最初は下を向いて勉強だけしていたけれど、すぐに彼女は変わった。
お弁当を持って、朝から夕方まで、彼女は毎日生き生きしているように見えた。
私たちも勉強を教えるのはとても楽しかった。どこで躓いているのか見つけ出し、解き方や考え方を教え、「分かった!」と表情が変わる一瞬を見るたびに、「ああ、私はこの表情が見たくて教師を目指したのだった」と思い出させてくれる、貴重な存在だった。

お弁当を食べながら、体育祭や合唱コンクールなどの行事について友達と一緒に参加できなかったことを、笑って「寂しい」と語っていた。
目の奥は本当に悔しそうで。
でもその分、高校生になって今まで以上の思い出を作るんだ、青春するんだと目を輝かせるようにもなっていった。
自宅でずっと続けている通信教育の教材を持ち込んで勉強することもあり、その添削結果を見る限りでは志望校に進めそうな勢いはあった。

だけど三年生になったとたん、急に塞ぎ始めたという。お母さんも原因は分からないらしい。これがコロナの後遺症というものだろうか? そう思っていた。

「またここで一緒に勉強できると思って喜んだのに」

それを聞いて私は、ふと変な想像を頭に描いてしまい、そのまま口にしてしまった。
「あなたがここに通うと知って……」
横手川君が無表情で私を振り返る。
しまった。続きを何と言ったらよいのか逡巡した。

「あ、いや、えっと。彩乃さんは、何か言ってたかな。突然来なくなっちゃったから、横手川君と友達だったなんて聞いてなかったし。えっと、ほら」
慌てて言い訳のような言葉を並べると、横手川君は目を細めて不思議そうな顔を向けた。

「彩乃は嬉しかったはずです」

嬉しかったはず? 彼の思い込みは、危険な匂いしかしない。

「ただ、僕がここに来たら、また似たようなことが起きるんじゃないかって不安になってしまったのかもしれません」
「似たような?」

ウメ子が、それはなに? と聞くように鼻をフガフガフガと鳴らす。ヨウちゃんが「ナアニ、ナーニ?」と聞いてくる。

「彩乃をいじめてたやつらはもう卒業したけど、僕が近くにいたら同じような目にまた遭うんじゃないかって」

「え、彩乃さんは虐めに遭っていたの?」

思わず大きな声がでた。
ここに来る前に、学校で何があったか全て情報共有されている。
彩乃さんが虐められたという話は聞いていない。後遺症らしき症状で起きられないし、元気がでないと。難しい病名の診断書もある。友達グループもある。『かけはし』に通っている時も、休日に遊んだ話などをたまに聞いていた。

一方、横手川君は昨年部活の先輩に殴られているところを目撃されている。今年になってからは、同じ学年の子に取り囲まれ怒鳴られているところも。だけど本人は虐めではないと否定している。それがどちらも女子生徒によるものだったものだから。女の子に虐められているなんて認めたくないだけかもしれない。

「僕と彩乃が付き合っていることを不満に思うやつがいて。虐めに遭うんです」
「えっ! 付き合ってるの?」
さっきより大きな声が出てしまった。
横手川君は、そうですよ、というような当たり前の顔をしている。

中学生で付き合ってるだの別れただの、それが珍しいわけではない。
本人たちからの報告や態度、クラスメイトからの噂レベルでも、気になるものは学校の先生方がチェックしている。「あの二人は別れて落ち込んで休んでる」とか、そんな情報もこちらまで共有されることがある。あくまで「深刻な事態に発展しないため」に。

彩乃さんの見た目は活発なタイプで、学校にいたらモテてもおかしくない。
やっぱり彩乃さんが『かけはし』に通えなくなったのは、自分と付き合っているだなんて変なことを言い出す横手川君が、『かけはし』まで追いかけてくると知ったからではないだろうか。

そう思ってしまったら、目の前の横手川君にどう対応すべきか、急に困ってしまった。

「だから、ぼく、春休みに」
「うん」
「会いに行って、伝えたんです」
「うん」
「僕は一生君を守る。だけど、今は別れようって」
「うん?」
「そのほうが、彩乃も気を使うことないかと思って」
「うー、うん」

もはや、何が正しいのか分からない。
早くこの場を終わりにして、彩乃さんに確かめたい気持ちでいっぱいだった。彩乃さんがどこまで話をしてくれるか分からないけど。

「だけど、そんなこと言わなければよかった。だって、僕が別れようなんて言ったから、彩乃はショックを受けてここにも来られなくなってしまった」

なるほど。彼から見るとそういうことになるのか。
ウメ子が「バウッ」と少し大きな声をあげた。「コワイ!」って言った? そうだね。怖いね。いやいやいや。もしかしたら横手川君の言うことが正しいのかもしれない。疑ってごめ……。いやいやいや。やっぱり違うと思う。

こっちだって伊達に三十路過ぎまで生きてきたわけじゃない。それなりに恋愛もしてきた。若い男女は、だいたいそういう勘違いをすることも知っている。
だからと言って横手川君に、「それはどうかな。あなた嫌われてないかな」と直球を投げつけるわけにもいかない。

彩乃さんも心配だけど、横手川君も心配だから。言葉は慎重に選ばないと。

「えっと。横手川君は、これからどうしたいのかな」
ウメ子の頭を撫でている横手川君の背中に尋ねると、笑顔で振り返る。
「だから、最初から言ってるじゃないですか。食べて欲しいって。別れるっていった日をなかったことにしたいんです。僕はずっと彼女を守る」

ああ、そうだった。
ウメ子が横手川君を見上げて ブフゥゥゥーン と鳴いた。
「うーん」
普通なら「やり直したいって言ってみたら?」と言うところだけど。
横手川君にそれは言ってはいけないと脳が指令を出している。

「やり直そうって伝えればいいと思ってますか」
「あ、いや、えっと」
「伝えられないんです。僕と会おうとしてくれない」
「あ、だったら、もう、さ」
「あの日の彼女の狼狽ぶりが酷かった。あんなになると思わなくて。彼女には忘れてもらいたい。そしたら彩乃は元気を取り戻します」

「いやいやいやいや」
彼の思考回路はどうなっているんだろう。これは完全に、このまま別れてもらう。うん。それが安全。そもそも付き合っていたかどうか不明だけど。

さらに、彩乃さんに元気を取り戻してもらうため、横手川君には他に目を向けてもらおう。うん。そうだ。
「横手川君さ、何か他に興味あることないかな。スポーツとか、アニメとか、えっと、ラーメンとか。ほら、まだ若いんだからさ、いろんな楽しいことを知った方がいいよ。世界は二人だけじゃないんだから。何が好き?」

何言ってるのか自分でも変だと思う。少なくとも『かけはし』に通う子にかける言葉じゃない気がする。
ヨウチャンが「ナッツ! ナッツ、カッテ、チョーダイ」と言い出す。あなたは自分の飼い主に言ってください。

「僕たちは、ずっと二人で頑張ってきました」
横手川君。それもきっと、勘違いだよ。
「やっぱり別れずに、一緒に闘おうと思ってるんです。いじめてたやつらと」
「闘う?」
どうしよう。思い込みが激しすぎる。
ウメが ブヒブヒーっと鼻を鳴らす。

「たたかう……」

さっきまでふざけていたようなヨウちゃんが、突然私の声色でお喋りする。
おいおいおい。やめてやめて。また始まったのか。

横手川君は驚いた顔で私を見た。
「そうです。だめですか?」

私はヨウちゃんを見た。必死の眼差しで伝える。ここで「だめですよ」って言うタイミングだ! 行け!
いくら合図を出しても、なぜかヨウちゃんはウメ子を見つめたまま小首をかしげて何も喋らない。羽根木くんの時のようにハッキリ言ってやってちょうだいよ。

横手川君は、私がヨウちゃんを睨んでいるのを不審な目で見ている。
あ、そうか。ヨウちゃんが言わないのなら、私が「だめ」って言えばいいんだ。やだ。鳥を頼るなんて、情けない。
横手川君の顔を見て、私は笑顔で口を開いた。

「いいよ」

ヨウちゃんの声が舞い降りた。私の声色の。
えっ、ちょっとなんで! 
ヨウちゃんを振り返ると、「何か問題でも?」と言わんばかりのキョトンとした瞳をしている。

「本当ですか、門馬先生。ありがとうございます」
「え、いやいやいやいや」

横手川君が頭を下げる。
ウメはブヒブヒ。
再度ヨウちゃん。
「いいよ!」

「こらっ!」
私は立ち上がってヨウちゃんを窘めた。
横手川君を振り返って「違うから」と言う間に、ウメ子も立ち上がる。

ぶるぶるぶるぶるぶるるっ 

ウメ子が体を震わせ、体中の生え変わりの短毛を巻き散らかす。今朝はブラッシングしなかったからいつもより抜け毛が多い。
さっきまでどんよりしていた雲間から太陽の光が差し込み、舞い散る体毛の一本一本を黄金に輝かせる。
それぞれの毛が意志をもっているかのように、ゆっくりと、あるいは素早く、ウメ子と横手川君を取り囲み、渦を巻くように空高く舞い上がっていく。

ぶるぶるぶるぶるぶるっ

いつもより長いぶるぶるで、ウメ子の頬の垂れたしわの間から涎も左右に飛び、垂れた耳もふるふる上下する。

ヨウちゃんは、バタバタと音を立てて翼を羽ばたかせ、ウメ子の頭上の渦巻いた体毛をさらに天へと舞い上がらせる。

ウメ子が、いつもは覚束ない両前足をピョコンと上げ、舞い上がり損ねた体毛のいくつかに長い舌を伸ばした。

ペロリ

ウメ子の飛び散った毛と長い舌に驚いた横手川君が半歩のけぞる。
その時、ジャージのポケットから顔をのぞかせていたスマートフォンがガツンと音をたてて地面に落ちた。

あ、と思った瞬間に、ウメ子の頭上で羽ばたいていたヨウちゃんが急降下し、スマホのストラップの紐を素早く咥えた。瞬きする間にそのまま再び急上昇し、クスノキの上のほうまで飛んで行く。

「あっ」

横手川君はあっけにとられたのか、ぼうっとしたまま動かない。
ヨウちゃんは、生い茂る葉の中にもぐっていって見えなくなった。

「ちょっ、ヨウちゃん、返しなさい!」
私は木の上に向かって叫ぶ。

基本的に、生徒はスマホの持ち込み禁止だ。だけど親とお迎えの連絡をとるために所持している場合が多く、取り上げることもしないし遊んでなければ黙認している。

さらに言うなら、ヨウちゃんは私の飼っている鳥ではない。ここの職員が餌付けしているわけでもない。

だから、「持ち込み禁止のスマホを、野鳥が持ち去りました。私たちに責任はありません」

いやいやいや。そんなの通用するわけない。

ヨウちゃんはいつもウメ子の傍にいて、みんなで話しかけて可愛がっているのも事実で。やばいやばい。スマホを壊されたりしたらどうしよう。どうやって責任取ろう。

横手川君もぼうっとしたままクスノキを見つめている。何も言わない。
彼の、眼鏡とマスクとサラサラの髪に、ウメ子がぶるぶるした時に飛んできた体毛があちこちくっ付いている。ウメ子の体をずっと撫でていたから、いつもより多く毛が抜けたんだ。
「ごめん、横手川君、今、先生がなんとかするから」
なんとかってなんだよって、自分でも思う。登ろうか、と覚悟してクスノキに手をかける。

いや、無理だな。

困っているとストラップを咥えたヨウちゃんが顔を覗かせた。
「あっ、返して。ごはん、ほら、ナッツあげるから」
私は掌をグーにしてヨウちゃんに見せる。ナッツを持っているように見せかけて。でも疑うような視線を見せるヨウちゃん。
「ほら、ほら」
必死でグーを伸ばすと、突然ヨウちゃんがポイっとスマホをぶん投げてきた。

「あっ、あーっ」
グーの手のままで落下地点に走る。
ズザザザーッとすべりこみ、なんとか落ちる前にキャッチしたけれど。
「イ、イタイ……」
膝と肘を地面に擦った。
イメージで描いたように体が動かなかった。まだ三十代なのに情けない。子供の頃は転ぶことなんて大したことなかったのに、大人になってから地面にコンニチハすると、ショックが大きくてなかなか起き上がれない。このまま死んだふりをしていたい。

横手川君が寝たままの私からスマホを取り上げる。
「あ、壊れてないか、確認して」
何でもない顔をして起き上がり、横手川君の持つスマホを覗くと、画面がバキバキに割れていた。
「大変! 割れてるじゃないの」
横手川君は冷静に指紋認証を解除して中身を確認し始めた。
「もともと割れてるんです。母のお下がりなので」
「あ、そうなの……」

連絡先は、ほんの数人。親と、学校関係かな。
次に立ち上げたのはフォトアプリ。
空の写真、空の写真、夕焼け空の写真、ブレた空の写真、空の写真。

パッと見る限り、人間が映っているのは一枚しかない。それを見て彼は明らかにほっとしていた。

「大丈夫です」
よかった。安堵のため息がでた。
「それは大事な写真なんだね」
私が尋ねると彼はゆっくり頷いた。
「見せてもらってもいい?」
彼は少し戸惑って、それでも私にスマホを差し出してくれた。

六人くらいのランドセルの子が映っている。端のほうで小さくピースサインをしているのが横手川君のようだ。顔が小さいぶん、メガネが少し大きく感じる。
「卒業式の時の写真?」
「そうです。母が撮ってくれて、僕に送ってくれました」
みんな笑顔で写っている。とくにいい笑顔なのが真ん中にうつる彩乃さん。
「いい写真だね」
「これしか、ないんです」
「一緒に写ってるのが?」
彼は頷く。
「卒業アルバムも買ってないし」
卒業アルバムを購入するかどうか保護者に聞くようになってから、購入しない家庭は毎年、数家族いる。金額が高いからかもしれない。遠足や行事の写真も、一枚もないのだろうか。

でも、横手川君の瞳に心なしか生気が戻っている気がした。
「僕、五時からスマホで勉強動画が始まるので見ないと。そのためのスマホなんです。壊れてなくてよかった。帰ります」
「あ、そう。気を付けて」

横手川君は「さようなら」と小さな声で告げ、さっさと自転車乗り場へ歩いて行った。

クスノキを振り返ると、まだヨウちゃんは木にとまっている。
「ヨウちゃん」
「ヨカッタネー」
「ヨウちゃん!」
叱るように叫ぶと、ヨウちゃんは目をまん丸にして首を傾げる。
「消したヨーォ」
消した?
「消したヨーォ」
「繰り返さないでよ。消したって何よ。消して欲しいって言われた日のことを消したってこと?」
ヨウちゃんは目をまん丸にして、足先で頭を掻く。

え? じゃ、彩乃さんと別れてないってこと?
「だめじゃん!」
ヨウちゃんはまた、「消したアヨーォ」と繰り返す。

そんなばかな。
消えたらまずい、って話ではない。一日を消したよ、なんて。そんなこと簡単に受け入れられるかって話。漫画じゃあるまいし。

「門馬せんせーい。雨降りますよ。今日は帰りましょう」
職員室の窓から藤原先生に呼びかけられる。空は急に濃いグレーの雲で覆われてきた。ウメ子を見ると腹ばいになってグッタリしている。雨に濡れないうちに帰ろう。

でも、今日にしようか、週が明けてからにしようか。
彩乃さんにも確認しておかなければいけない。

あなたの一日は、消えましたか、って?


【第7話】横手川君と松田さんの場合(後編)



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