シナプスの枯渇を待つ 《#シロクマ文芸部》
愛は犬の名だ。
落ち葉の割れた音でふと記憶が繋がった。
そうだ。散歩の途中だった。
安堵のため息を洩らし、茶褐色のリードをピントの合わない両目で見つめる。
物忘れが激しすぎて困る。
それにしても、なぜ犬に「愛」なんて名前をつけたのだったか。
そうだ。妻の願いを叶えたのだ。
「愛情いっぱいに育てたいの」
異論などあろうはずがなかった。そして溢れんばかりの愛情を注いだ。それに応えてくれる立派な子に育った。
……子?
頬を撫でる秋風は一瞬で過ぎ去って消えた。
「愛」は犬の名だ。
犬を「子」とは言わないだろう。では、「愛」は誰の名だったか……
「あら、久しぶり。すっかり涼しくなって、お散歩日和ね」
声をかけてきた小太りの婦人と、その連れられた小犬を順に見つめる。
はて。どなただったか。ご近所さんだったような気もするし、初めて会ったような気もする。ご挨拶したいが第一声に詰まってしまう。
乾いた唇に力を込めたとき、後方から別の婦人に追い抜かれた。
「ほんと久しぶり。うちの子、今から狂犬病のお注射なのよ」
「あらそう。大変ね」
ご婦人方はこちらに一瞥をくれて足早に去っていく。
ああ、そうか。
犬でも猫でもペットのことを「子」という婦人は多いと合点がいった。それに自分が話しかけられた訳ではなかった。見知らぬ人の名前など分からなくて当然、と緊張が解けてゆく。
澄み渡る青空にブレずに伸びる一筋の飛行機雲。
よし。散歩を続けよう。
車道を横切るタイミングを計っていると、こちらを覗き込むように見て走る運転手と目が合う。ゆっくり通り過ぎた乗用車は脇に停車し、こちらを伺いながらどうやら通話をし始める。
その姿が目に入ると足が竦んだ。
今しがたと同じ焦燥感にのみ込まれる。
理由は分からない。
いや、運転手は無視して早く…
早く愛と…
愛……?
はて。「愛」とは……誰だったか。
足元の茶褐色のリードに目を這わすが、果たしてその先端には何も繋がれていない。
木の葉が微かに音を立てアスファルトの上を走る。
私は、ここで、いったい何を…
命綱を外されたような、急激な寒さを覚えて身体が震えた。
「いた、いた!」
道の向こうからサンダルの女性が走り寄ってくる。
――愛?
急激に回路が繋がった。
そうだ。あれが「愛」だ。
大仰な溜息をついた愛は、周囲を見渡して囁くように言う。
「一人で勝手に外に出るなよ」
そうだ。「愛」は娘の名だ。犬の名ではない。
愛は、茶褐色のリードを持ち上げて乱暴に引く。引かれるままに足を動かす。
では、犬の名は何だったか。
幾度目かの接触不良。何かの軋む音が脳内に響く。僅かに嗅ぎなれた匂いの門をくぐり砂利を踏むと、どうやら靴を履き忘れていたことに気づく。足の裏がとても痛い。駐車場では男がエンジンをふかしてこちらを睨んでいる。庭の犬小屋では、かろうじて「ラブ」と読み取れる板が湿った音を立てて揺れていた。
そうだ。犬の名は愛だ。
回路が繋がれば、つい眼前の女には嫌味を言いたくなる。
「今日もワシの年金でパチンコか」
娘は目を剥いて罵声を次々発する。
リードを引いて蹴り入れられた部屋の隅で背中への激痛に耐えながら、だが、おかげで足の裏の痛みを忘失する。
娘は今日も南京錠をかけてから車に乗った。
湿った布団に横になり、瞼を閉じて亡き妻と一緒に愛を埋めた日を偲ぶ。
そう。「愛」は犬の名だ。
それ以上でも以下でもない。
あとはただ、全て枯渇する日が来るのを待つ。
(了)
カップリング?の「恋は猫」はこちらです。こちらは雰囲気違いますので安心してどうぞ。
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