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小説/汐喰シーサイドホテル704号室

「お願いだよ、この通り。な、な?」
父さんは  汐喰しおばみシーサイドホテルのフロントカウンターで両手を合わせる。
僕はカウンターに飾られた金色に光る〔Good-bye 2023〕の文字を見つめてる。
「海の見える部屋だって本当はひとつくらい空いてるだろ。な」
「申し訳ございません。あいにく満室でございます」
ホテルの人は同じ言葉を繰り返す。
「年越しの花火を子どもたちに見せたいんだよ。分かるよな。な?」
「お客様。打上げ花火でしたらロビーからでも一応ご覧いただけますよ」
別のお客さんの対応が終わった女の人も笑顔で父さんに声をかける。父さんは女の人をギロッと睨んで頭を掻きむしる。
「だからオマエさ。な。小さい子を連れて夜中に出てこいって? な。しかも一応ってなんだよ」
オマエと言われた女の人の顔が強張る。
「おまえもだよ。予約の時に山側の部屋だって言ったのかよ。シーサイドホテルだろ?」
父さんは男の人もオマエ呼ばわりしてカウンターを叩きだす。はじめは丁寧な言葉遣いだったフロントの人も明らかにムっとしている顔に変わる。
「予約担当の者が【一番お安い部屋】ですと部屋から海はご覧いただけませんと必ずお伝えしています」
もうフロントの人たちは頭も下げないし営業用のスマイルも見せない。
父さんは、だから子どもがさ、と僕たちに背中を向けて戦う。
 
父さんは、いつもぼくたちのためにがんばっています。ぼくは幸せです。
 
二歳年下の弟、陽太に強く手を握られている僕の隣で母さんは、いつも通り床のタイルの模様を眺めていた。陽太は汗っかきで気持ちが悪い。だけど不安な時は必ず手を繋いできて離してくれない。
僕が小学校に入学した年は、玄関で泣き叫ぶ陽太の手を無理やり剥がして登校した。陽太が入学した 2021年ニーマルニーイチは1年生の教室の前で無理やり剥がした。 2022年ニーマルニーニーは保健室の前で無理やり剥がして教室に向かった。そしてまた、アパートの玄関で無理やり剥がして一人で登校した 2023年ニーマルニーサンはもうすぐ終わる。

僕は〔Good-bye 2023〕の金色を見ながら溜息をついた。陽太も真似して溜息をついた。

父さんは山側の部屋の鍵を乱暴に受け取って舌打ちを繰り返しながらエレベーターホールに向かう。僕も陽太の手を引いて父さんの後を追う。靴底に鉛の板が入っているみたいで上手に足を動かせない。だけど僕は必死についていく。
今日はこれから最後まで、こうやって父さんについていかなきゃいけないんだ。

エレベーターの奥で女の子の声がして、女の子が持っていた茶色い小瓶からサラサラと砂がこぼれるのが見えた。落ちると思った粉はふわりと舞い上がってチラチラ光って飛んでいた。
きれいだな、って思ったんだ。
「これは母親です」
女の子が変なことを言った。お母さんのものだから自分は悪くないって意味だったら、言い訳するなって父さんが怒鳴り出す。どうしよう。僕の肩に力が入った。女の子は陽太の足元の砂を集めて瓶に戻す。陽太は全然見ていない。邪魔だよ、どきなよって繋いだ手を引くけど陽太は動かない。なんで陽太はそうなんだ。きっと父さんが怒り出す。どうするんだよ。目をつぶってじっと堪える。
 
 *
女の子は5階で降り、エレベーターには家族だけが残される。吸い上げられるように静かに登る。エレベーターはカクンと止まって最後に「フィン」と音をたてる。


7階の一番奥の部屋だった。部屋を開けてすぐ父さんは冷蔵庫の瓶ビールをグラスに注いだ。
「さっきのエレベーターさ」
僕は気をつけの姿勢で怒られるのを待った。
「あの舞い上がった粉を吸ったら死ぬかと思って息止めたよ。ふっ。ふっ」
父さんは笑いながらそう言ってグラスのビールを一気に飲んだ。
「テロなら良かったな。誰かここで自爆テロでも起こしてくんないかな。みんな死ねばいい」
父さんの言葉に母さんの顔が引き攣った。
「それなら最初に死んだ方がマシだよな」
な? と言われた母さんは曖昧に頷く。
「そうだろ? 残されたらつらいだろ」
父さんはビールをどくどく注ぐ。
「殺されるより殺すほうが絶対つらいに決まってんだよ、な?」
母さんは「はい」とうつむきながらバルコニーの窓を開けた。
「こっちから海が見えそう」
バルコニー横側のフェンスから、覗きこめば海の花火はきっと見えると母さんが言った。「お父さん花火好きですものね」と。
父さんが「あ?」と眉間にシワを寄せて僕はまた気をつけをした。
母さんが「角部屋を取ってくれてありがとう。私たちは幸せです、ね」と言うから僕は何度も頷いた。父さんは満足そうにビールを飲みほした。そして「風呂に行くから準備しろ」と僕たちに向かって言った。
 
* 
ザラついていたはずのエレベーターは誰かの手によってピカピカに生まれ変わる。初めから何もなかったかのように。エレベーターに乗り込んだ家族は地上1階に素早く落ちる。


父さんが「学校のプールよりでっかいぞ」と教えてくれた大浴場はまだ「準備中」で入れなかった。舌打ちした父さんのあとを鉛の靴で追いかける。父さんはそのままロビーから外に出て海に向かった。僕たちも手を繋いで必死に海を目指す。
「どうだ。風呂よりデカい。な?」
父さんは雨上がりの澄んだ水平線を見つめて自慢気に言った。風が僕たちを冷たく撫でる。
「馬鹿にしやがって」
父さんは足元に近づいては離れていく海水を見つめて呟いた。そして足元の石ころを海に投げる。
ポチャン
 
沈んでいく石を見た陽太も真似して石を拾い海に向かって投げようとする。僕は「投げたらダメだよ」と小声で止める。だって物を投げたら叱られる。父さんの顔を慌てて確認するけど逆光でよく見えない。陽太は「やだ」と言って海に投げる。
ぽちゃん。

「いいぞ」と父さんが言った。
いいぞ? 父さんはまた石を拾ってもっと遠くに投げた。ポチャン。
「湊も投げろ」
石を投げてもいいんですかと聞けなかった。投げろと言われて慌てて拾って投げた。右手は陽太が離さないから左手で。ぽちゃん。
「ふ。ヘタだな。もっと遠く!」
「はい」
僕より先に陽太が投げる。ぽちゃん。
「よし、もっと」
僕も頑張って投げる。ぽちゃん。何度も。ポチャン。何度も、陽太と、父さんと。負けないように。ポチャン。遠くまで。遠くの何かに届くように。僕たちは必死で投げつづける。ポチャン、ポチャン。ポチャン。

いつのまにか父さんは手を止めて僕たちを見ていた。逆光の父さんは、でも微笑んでいた。

笑っていたんだ。
 
海からの大きな風が僕たちを包んだ。
この風で飛ばされちゃえばいい。たとえばアメリカとかアフリカとか。僕たちみんな、誰かの投げた石ころみたいに。ずっと遠くまで。
 
小さな波が足を濡らした。しゅわしゅわと音を立ててジワジワ取り囲んだ海の水は靴の中まで染みこんで冷たかった。僕はまだ地上にいる。現実の冷たい水の中に。

波から逃げだす陽太に引っぱられて僕は転んで尻もちをついた。おしりがびちょびちょだ。しまった今度こそ怒られると思ったら陽太が真似してわざと転んだ。陽太がアハハと大きく笑った。そっと父さんを見たら、父さんも腕を組んで笑ってた。だから僕もちょっと笑った。陽太も父さんも歯を見せて笑った。

みんなで笑い合ったんだ。

もし今の僕たちを誰かがどこかから見ていたら。
こんや僕たち家族がこのホテルで一家心中するつもりだなんて。きっと絶対、思わないだろう。

そのくらい僕たちは、このとき一生ぶん笑ったんだ。
 
***

いつかの夜だった。陽太は寝ていた。僕は寝たふりをしていた。「31日に」というのは父さんの最終結論だった。
陽太にどのみち未来はない。湊だってそうだ。な、俺がどんなに家族のために頑張ったってどうにもならねぇ。けどお前のせいにはしない。家族みんなの責任だ。な。俺だけだったら逃げられるんだよ。でも俺がいなくなったらお前たちどうすんだ。無理だろ。な。
そして父さんは泣き出した。
一緒にいこう。な。みんなで最期を迎えよう。家族だろ。家族は一緒がいいだろ。な。
な?
 
父さんは最後までぼくたちのためにがんばってくれました。ぼくは幸せです。

***

パン、たまご、カニ! 肉! 寿司! エビフライ! スパゲティも、ラーメンもある!

夜ごはんは13階のレストランでバイキング。好きなものを好きなだけ、何でも食べていいんだぞって言われて興奮する陽太を押さえつけるのが大変だった。でも僕だって目が泳いでる。こんなごちそう天国みたいだ。
急いでお皿を手に取った。陽太の手を剥がして片っ端からトングでつまむ。陽太も僕の真似をして同じものを同じだけ盛りつける。
「おいしいね」スープを飲んでる母さんが笑う。
「そうだ。いいぞ。ぜーんぶ食っちまえ」父さんも笑ってビールを飲む。
お腹いっぱいになった僕はまた、陽太と手を繋いでデザートをたくさん盛りつけた。
「にいに。アレ」
陽太が指さしたのは三段に重なったお皿のてっぺん。チョコレートが宝石みたいに光っていた。
「むりだよ、届かない。もうお皿に乗らない」
「やだ。アレ」
陽太が足踏みを始めた。泣いたらどうしよう。だけど無理なものは無理なんだ。何を食べてもいいって言っても手が届かないものだってあるんだ。なんで分かってくれないんだ。わがまま言う陽太をぶちたくなった。

隣にいたおばさんがチョコレートの宝石をトングで摘んで僕に話しかけた。
「これ、欲しいの?」
びっくりして女の人を見た。知らない人だ。どうして僕が困っているって分かったの。僕たちを助けてくれるって言うの。そんなことってあるの。
そしておばさんは僕のお皿を見おろして「すごい量。この世の終わりなの? 最後の晩餐?」って鼻で笑った。

僕は一気に地獄に堕ちた。かわりに何かが足元から一気に駆け上って体を覆った。
知っているんだ。この人も。僕たちの最後の晩餐だって知ってるんだ。
おばさんは首に包帯を巻いていた。目の下も黒い。目の中が赤い。人間じゃないのかもしれない。 僕は怖くなって周りを見渡した。
あの人も、この人も。みんな僕たちが最後だって知っているんだ。だから笑ってるんだ。最後だから優しいんだ。
そして死ぬのを、待ってるんだ。
 
家から裸足で飛び出して走って逃げた 2020年ニーマルニーマル。隣のおじさんと目が合った。「父さんにぶたれます」と書いた日記を先生に出した 2021年ニーマルニーイチ。「悪いことしたの?あやまりましょう」と返事をもらった。「たすけてください」と書いて出した 2022年ニーマルニーニー。昨日と同じ花丸だった。
だから今年は書き続けた。ぼくは、とても幸せです。
 
包帯おばさんは「落とさないで頑張ってね。大丈夫ね」と言ってチョコを2つ、そっとお皿に乗っけて僕の前からいなくなった。
 
はい。がんばります。だいじょうぶです。ぼくは、とても幸せです。


ティンと鳴ったエレベーターの扉が開く。レストランから家族を乗せた箱は下へ下へと勢いを増す。吸い込まれるように、当たり前のように家族みんなで落ちていく。二度と最上階のレストランには戻れない。もしここで弟の手を振りほどいても、垂れさがる蜘蛛の糸を掴むようにがんばって手を伸ばしても下へ下へと落ちていく。家族一緒に。みんな仲良く。「フィン」って音で扉が開く。


ホテルの部屋の壁掛けテレビから『勝者は紅組でーす!』と叫ぶ声が聞こえて目が覚めた。お腹いっぱいで寝ちゃってたんだ。陽太は僕の浴衣の紐を握りしめて眠ってる。父さんは足をガタガタ揺らしながら窓の近くでタバコを吸っている。母さんは布団をきれいに畳んでる。
僕はもう、寝ているあいだに終わりなんだと思ってた。うっかり目覚めてしまった僕にテレビの中の知らない人たちがキラキラの紙吹雪のなか笑って手を降っている。
僕は一生懸命目をつぶって挨拶をした。さようなら。さようなら。


ヒュゥゥゥゥゥゥ

笛みたいな音が響いて目を開けた。どこか遠くで『5分前』の声が聞こえる。

パァァァン

花火の音だ。
窓を見たら父さんと母さんがバルコニーにいた。母さんは部屋の布団や枕を持ち出して高く積んだ上に立っていた。

ヒュゥゥゥゥ ヒュゥゥゥゥゥ
パァン パァァン
 
「見えるわ」
母さんの代わりに今度は父さんがバルコニーのフェンスに大きく体を乗り出した。海の方を覗き込んでる。本当に花火が見えるんだと思った時だった。
母さんが、父さんの飲んだビールの瓶を両手で持って大きく振りあげた。

ヒュゥゥゥゥゥ ゴン パアァン

父さんは、頭をおさえて振りむく。
母さんは、もう一度大きく振り下ろす。
父さんが叫んだ声は、花火の音で聞こえなかった。
母さんが叫びながら、しゃがんで父さんの足を持ち上げた。
 
ヒュゥゥゥゥ ヒュゥゥゥゥ
パンッ パァァン

空が黄色や白に光った。
父さんは、フェンスをかろうじて掴んでいる。
母さんは、それを剥がそうとしている。
父さんは、何か叫んでいる。

『3分前!』

ヒュゥゥン
 
気づいたら僕は寝ていた布団を剥いでバルコニーへ走っている。
下に落ちていたビール瓶で力任せに父さんの手の平を、指を、叩く。叩く。叩く。何度目かに思いきり叩いたのは父さんの指ではなくフェンスだった。カァンと鳴って手がじんと痺れた。僕はその場にへたりと座り込んだ。

ドォン
パンパン パァン
 
『1分前!』

花火と違う音もした。母さんの荒い息遣いが聞こえた。見上げたら花火の光が母さんの顔に反射して、緑に光った。黄色く光って、真っ赤に染まって歯が見えた。

母さんは笑っていた。笑っていたんだ。
そうか。そうだ。そうだったんだ。僕はやっと分かった気がした。誰も教えてくれなかったけど。誰も助けてくれなかったけど。
 
母さんがゆっくり僕を返り見る。泣いているような、笑っているような顔で。そしてフェンスから手を離して僕の方に手を伸ばした。僕はお尻をあげて手に力を込めた。もう分かったんだ。下から見上げた母さんの顔が完全な笑い顔になる前にぐにゃりと歪む。
僕は思いきり母さんの足を持ち上げた。
母さんは、軽かった。

『30秒前』

ヒュゥーン ヒューン ドン パァァァン

僕は布団の山に登って下のソレを確かめる。動かないソレらが花火の光でたまに見える。
やった! 僕は、やったんだ。
興奮して息遣いが荒くなる。布団の山から海を見る。空の花火は全然見えなかったけど、海に反射している赤や青、緑色がキラキラ光って美しい。こんなの初めてだ。こんなに花火がきれいだなんて。知らないうちに笑っていた。「自由だ!」って大声で叫びたい気分だ。

『10秒前!』

叫ぼうとして両手をあげた。
僕の視界がぐにゃりと歪む。

『8、7、』

慌てて掴もうとしたフェンスがするりと抜ける。
今まで何度も無理に剥がしてきた陽太の手の汗を今度は足首にしっかり感じる。

『4!』

陽太の手を摑もうと手を伸ばす。
陽太の顔が、すぐに小さく、遠くなる。
真似すんなって伝えられないまま、手が届きそうな自由の花火が、遠くなる。
 
『1』

ヒュゥゥゥゥゥゥ ヒュゥゥゥゥゥゥ
いくら手を伸ばしても
 
『ゼロ!』

花火が高く上がっていくのか、僕が落ちているのか。もうよく分からない。

『ハッピーニューイヤー!』
ババババババッ ドドーーーン ドーン

花火の光が僕らの顔を真っ赤に染める。

さようなら、 2023年ニーマルニーサン。 
ぼくは、とっても幸せでした。
 
 
(了)
 


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