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モロイシンジのお仕事#1 〜メモハラ〜

 雨が好きなどとよくもまあ言えたものだ。百貨店内を我がフィールドなりといった様子で闊歩するマダムも、いざエレベーターで一階に降り百貨店独特の香水やら化粧品の入り混じった香りを抜け、外に出てもわっとした空気を肌で感じることで雨を目の当たりにすると借りてきた猫のように大人しくなる。

 諸井は今日五本目の煙草に火をつけると、まるで何かに迫られているかのように煙を肺へと流し込む。とどのつまり皆んな忘れてしまっているのだ。夏の暑さもカレーやミートソースが白いシャツについた時の絶望感も。だから夏が好きだと言ってみせたり、カレーはもはや日本の国民食であるなどと平気でのたまう。諸井はそのような人種に思いを馳せながら、今日までが締切の動画の編集を行う。

 諸井の隣にいる若い男が空想に耽る諸井に対したまらず文句を言う。

「作業スペースでは吸ってもらっちゃ困るって言いませんでしたっけ?まあ仕事さえこなしてくれたらいいんすけど…」

「君も2ヶ月前まではここで吸っていたし、電子タバコに変えてここでは吸わないと宣言してからも、1週前の月曜日だったなあ、二日酔いがきついとか言いながら投げやりにここで煙草を吸っていたよ。足掻くのはやめましょう、ストレスだ」

 諸井は憶えているのだ、誰がいつ何を言ったか何をしたか、その時その人は何色の服でランチは何を食べてきたか。

「諸井さん、メモリーハラスメントっす。もうほんと一言ったら百返ってくるのは慣れたんですけど、あん時ああだったとかこうだったを正確な日付と一緒に指摘してくるのはメモハラですからね」

「メモリーハラスメントか、いやあそう言われてしまうと気をつけるしかない。でもねえメモリーハラスメントをメモハラと略するセンスはいただけないね。俺は全て覚えているからメモを必要としないし、人にもメモを強要しない。メモハラっていうとまるで、メモをとることを強要するハラスメントじゃないか」

 若い男は諸井の独演会には特に反応せず、次の動画の構想を練ることに決めたようで、机の上のタブレット端末とにらめっこを再開した。若い男は自分と自分の仲間数名で立ち上げたYouTubeチャンネルであるbakusou TVの動画編集を全て諸井に頼んでいる。

 爆走するような勢いで自分達のコンテンツ力を世に知らしめたいとのことであったが、2年間毎日配信を続けても結果は振るわずな現状である。

「思い出すね、榊原くんが俺に仕事を依頼してきてくれたときのこと。あの日は前日のぽかぽか陽気からは想像できない暴風でせっかく咲いた桜がほとんど散っちゃってさ、ねえあの時食べた温玉ドリアさ、温玉の殻が入ってたんだよ、あの場では言わなかったけどね。榊原くん聞いてますか?」

外はお昼どきなのにやけに静かであり、心地の良い風がオフィスと称したアパートの一室に吹き込んでいる。

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