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モロイシンジのお仕事#3〜独身君主〜

 新宿の中心地から少し外れ、歌舞伎町辺りの騒がしさが嘘のように思えるほど静かな場所にひっそり佇むマンション。オートロックを解除し入り口を抜けエレベーターで5階に上がり、出てすぐ右斜め前が諸井の部屋である。

 諸井は自宅に着くとまず玄関で服を着替える。出かける前に某有名スポーツブランドのスウェットを上下、靴箱の上に毎日欠かさず用意しているので、帰宅時は機械的に服を脱いで、着るだけで済む。玄関で着替えを行う様子ははたから見れば滑稽であろう。がしかし諸井にとってこの行動は必須である。

 「今日も今日も生きて帰ってこれたあ、雑多で粗雑且つ繊細なあ、うんうん、ただいま。一人だからこそただいまはするべきなんだよね、うん。」

 35歳にして未婚独身男の室内は特段汚くもなくほどよい生活感を漂わせているが、同時に強く非現実を匂わせる。家具や備品はどれも至ってシンプルであり、食べ終わったままでソファーの上に放置してあるスナック菓子の袋等は、そのまま中年一歩手前の男性の生活のイメージが投影されているかのようだ。しかし、あまりにも世間一般が想像するそれと部屋の様子が合致しすぎていて、かえってドラマ撮影のためのセットのような雰囲気も醸し出しているのだ。

 この城の中に外の記憶を持ち帰らないようにすることが、諸井の玄関での着替えの目的だ。目にしたものと聞いたこと、意識にのぼった全てを記憶してしまうこの男にとって、思い出さないために何らかのスイッチを自身で設けることは、精神衛生上不可欠であるのだ。

「ん、なんか匂う、タレが焦げたような…うーんそうか飲み屋街を抜けたときの焼き鳥屋の煙だなあ」

 スイッチを切っていても些細なことからこの男は記憶の洪水に襲われてしまう。諸井は匂いと自身が発した焼き鳥屋というワードから、以前仕事が長引いて終電で新宿駅になんとか着いた時に、改札付近で聞いた大学生二人組の会話を思い出し、思考に耽った。


 おそらく終電で飲み帰りだったのであろう。若者のうち片方が若干羅列の回っていない調子で、「俺たちみたいな庶民を受け入れてくれるってなんと懐が深い」「貴族ともあろうお店が」とご機嫌で語っていた。
 二人が食べていたのは焼き鳥だよ。間違いない。あの時は貴族と称されるお店っていったいどんなところだと思っていたが…
 それにしても貴族という言葉は、昨今若干の皮肉めいた意味を込めて用いられることが多いなあ。思い出す限30代を超えてから特に、自分に向けて貴族という言葉をよく投げかけられる。榊原くんにも言われたっけなあ、

「独身って気楽ですか、やっぱ貴族って感じで」

 正解だよ榊原くん。独身は気楽。さらに言うなら我が家国家の君主だな俺は。うんうん。


 諸井は自分で脱いだ服をその日のうちに自ら洗濯する。君主たる男は日々さまざまな仕事に追われているのだ。

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