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「心を無にする」とは

「心を無にする」という言葉がありますが、なかなかこの言葉の真意はちゃんと説明されていないと思うので私なりにかみ砕いて解説してみようと思います。

 まずここで言う「心」とは何かですが、記憶や思考・感情などの脳から上がってくる情報や、五感で得られる外部からの情報ーーこれも脳をとおして得られている情報ですがーーこれらがいつも置かれているところ、脳内にある「情報を置くところ」を「心」と呼びたいと思います。心というものには定義は存在しませんので、あくまで私の仮定です。

 そして、ここへ意図的に何かを置こうとすることを「心が無ではない」と呼び、わざわざ何かをここへ置こうとしないことを「心が無である」と呼びたいと思います。言いかえれば、五感は働いているけれども記憶や思考・感情の動きは停止している状態を「心が無である」と呼びたいです。

 情報を置くところに何も置かれていないことを「心を無にする」と言うべきなのかもしれませんが、それでは五感から得られているはずの情報も心に届かず断たれていることになります。もしくは五感の働きを停止しているのかもしれません。それはおそらく更に無に近い状態ですが、私はその世界を知りませんので、それについては私は語ることができません。もっとハイレベルなかたにそれはお任せします。

「我思う、故に我あり」という言葉がありますが、記憶や思考・感情の動きは停止していても五感が働いている状態はあります。目を閉じても視神経のノイズが心にきらめくはずですし、耳栓をしても自分の鼓動や耳鳴りが聞こえるはずです。それは心を無にしたあとでも自然なことです。そのような状態では「我感ずる、故に我あり」と感じることができます。ただし、そのような自己を診断する雰囲気は消すこともできますし、そのほうが無に近いです。

「我感ずる、故に我あり」の状態では記憶や思考、感情は本当の自分自身ではなく、脳から心に上がってくる情報にすぎないことが実感されます。

 心が無になった状態では、五感が非常に素直になります。音楽を聴けば複数の楽器が多重の旋律を奏でているのがそのまま己の心に届いて、いくつもの旋律を同時に知覚できます。食事をすれば、料理が持つ味も香りも食感もより深く重層的に楽しむことができます。
 このように書くと「音楽を聴く時に聴覚を鋭くするのか」「料理を食べるときに味覚などを鋭くするのか」と思われそうですが、逆です。何かに集中して、聴こうとしたり味わったりするのではありません。
 いままさに己を包んでいる世界のあるがままを受け入れ、先入観を消し、五感を同時に知覚するのです。鋭くなろうと集中してはいけません。情報をむさぼろうという欲は、得られる情報量を減らします。自然体でくつろいで、その場にあるなにもかもを受け入れるのです。そのほうが何を楽しむにしてもより情報量が高まるし、得られる幸せの量もだいぶ増えます。
 そしてこのような状態になると「我」という存在は冗長だなと感じるようになります。ただただ情報と情報が脳内でもつれ合いたわむれているだけで、存在しているのは情報だけでよくて、我などというものはあるのかないのか、そもそも我などという固定概念を言い出したのはどこの誰でどんな根拠に基づいているのか……「心が無になっている」自分をあとでふりかえるとそう感じます。

 このように心を無にするためのポイントですが、自分をコントロールしている制御権を捨て、ありとあらゆるものの自由を認め、何もかもを世界にゆだね、ふだん己を制御している部分も世界(つまり、いま感じている情報)で満たすことです。このとき等身大で嘘偽りがない世界を求める姿勢が大切です。世界を求めるというよりは世界に寄り添うくらいの気持ちのほうがいいかもしれません。人間である以上真の世界など見えるわけもないのですが、いま自分の五感と肉体感覚(脳をとおして肉体から上がってくる情報)で感じられる「等身大の全て」を求めて自然体の己を追求することは、心を無にする訓練として適切だと思います。
 また、心が脳で生成されているという気持ちを消し、心が全身の細胞の統合から生まれている気持ちになるのも大切です。言いかえれば、五感を頭で受けとめるのではなく、全身で受けとめるつもりになってください。もう少し言い進めるならば、肉体感覚と五感で得られる情報を区別するのをやめてください。
 ときどき「頭で考えるな、肝で考えろ」とか「己を捨てて世界と一体になれ」とか言う人がいると思いますが、大まか同じことだと思います。
 余談ですが、ありとあらゆるものの自由を認めたとき、はじめて自分自身も自由になれると思います。

 注意していただきたいのは、このようであるべきなのは、心を無にしたいときだけで、ふだんは普通にいままでどおり生きたほうがよいということです。悟りを得ることが大事な人は別なのかもしれませんが、社会人・家庭人としてよりよく生きたい人は、自分自身も家族も守らなくてはいけないし、そのためには自己や他者の自由を制限する必要があります。戦う必要がある人は、少なくともこの現世では仏になるべきではないと私は思います。

 私が語れるレベルの「心を無にする」は等身大の世界をより愛でて楽しむためのツールですし、記憶や思考・感情を制御するためのツールでもあります。逆に言えばその程度のものでしかありません。現世での実利・実益を重視するのならば、私をふくむ一般人はここまでで充分だと思います。

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