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~学生新聞に見る北海学園七十年史~(12)全体性の喪失と“ミクロ化”の新世紀へ 1997~2017


●さらば教養部


 これまでこのシリーズを読み進めてきた賢明なる読者の中に「教養部」というワードについて頭に疑問符を浮かべた人も多いのではないだろうか。
 教養部というのはおよそ四半世紀前まで日本中の大学にあった制度で、大学2年次まで(必要な単位などを取得出来なければそれ以降も)どの学部の学生であっても同じように、今日では「一般教育科目」に分類されるような科目しか受講出来ないものであった。
 今や国立大学でこれを残置しているのは東大のみで、本学でも1998年に廃止された。この教養部の雰囲気を色濃く残しているのが北大の「総合教育学部」制度(基本的には1年次に修了することになっている)であり、北大1年生の多くはここを通過し、2年次からの専門教育へ、あの広大なキャンパスに広がる各学部へ(そして人によっては函館の水産学部へ)進むこととなっている。札幌キャンパスの北18条に位置する高等教育推進機構というややこしい名称の建物(本学学生の中にもセンター試験会場として利用したことのある人がいるだろう)が令和の世でも「教養棟」と俗称されていることこそが教養部の名残である…と言えば北大コンプの学園生の皆様にもお分かりいただけるだろう。
 教養部制とはつまり、1年次と2年次は(今で言うところの)一般教養科目しか受講出来ず、「移行」を経て(これに失敗するともれなく留年してしまう)、3年次から一気に「専門科目」を詰め込むものだと言えば、この制度が当時の学生から嫌われていたのに頷けるだろう。今も昔も学生は講義を自由に選択し、かつ出来れば「役に立つ」ことを学びたがるものであり、90年代の「自由化」と「改革」を歓迎する風潮の中で教養部は廃止された。
 教養部で過ごす2年間が専門知の習得を妨げているのではないか、という疑念は本学でも80年代後半から散見されるようになっていた。教養部の存在がまだ「当たり前」だった1993年の『再刊』第57号で紹介された、難関である司法試験の合格を目指す1・2年生のみで構成される未公認サークル「真法会」(顧問:向田直範法学部教授)の紹介記事の末尾の顧問コメント内に「司法試験や国家一種試験は専門課程に入ってからの勉強では間に合わない」という言葉があるなど、この時既に教養部体制への不満(あるいはもどかしさ)は蓄積されつつあった。『七十年記念誌』収録の座談会『本学の教養教育を考えるー教養部を振り返ってー』(2018年1月17日)におけるある教授の「そういうの(ラーニングコモンズやオンライン教育等)を見ていると、こういう言い方あれなんだけども、教養教育とかという議論は、ちょっとワンテンポおくれているんじゃないかって」という発言に時代の流れが教養教育への学生側からの要望を押し流したことを端的に現れているのではないだろうか。

(今でも教養部らしきことをしているのは地理的制約によって1年次に一般教養科目の履修を終えなくてはならない工学部のみ)

●善き銭ゲバの時代、ガクチカのための大学祭

「突然一人の若者が演壇に立った。「私は北海学園大学のパスワードの代表野宮秀人です。ネグロス救援金を作るために二千人規模のディスコパーティーを考えました」。彼は右手に持った計画書を大きく振りかざした。会場はどよめいた。(中略)「パスワード」はこの集会が開かれることを新聞で知った。「これはいけるぞ」。一人が叫んだ。社会のために貢献するという理由があれば、いろいろな大学の自治会も動いてくれる。自治会が絡めば二千人、三千人の動員も夢ではない。一人から千五百円の会費をとり二千人集める。五十万円をネグロスに回すことができる。野宮さんは集会で計画をとうとうとしゃべった。彼等はネグロスの悲劇をフィリピンの深刻な政治、経済問題としてはとらえていない。疑惑に揺れる日比関係も棚上げして運動に加わろうとした。野宮さんは「はっきりいって僕らはパーティー屋。選挙や政治が絡んだらやる気がしない。大きなパーティーをやるきっかけとしてネグロスがあったんです」と割り切っている。しかし、こうした若者たちの考えを集会に参加した人たちは戸惑いの表情をみせながら拒絶した。

(1986年6月25日付北海道新聞朝刊第22面『‘86新人類選挙考 7⃣ ネグロス 救援をイベント化』より)

かつて、学生新聞(この連載は一応学生新聞を読む企画である!)は読んでいて鬱陶しく感じるほど、直接、ベタに同じ学生(学友)に行動や実践を呼びかけていた。デモに参加しよう!勉学に励もう!学生大会や十月祭に全学生参加しよう!だとか、例を挙げればキリがないし、引用すればその時点で数少ない読者すらブラウザバックしかねないのでやめておこう。ベタに訴えかけることの出来ない令和の私はなんとかアジテーションを回避しようと努めてきた(ベタな学生像が好きな人ほどこの手の連載に親和的なのが悲しい矛盾だが)ように、今やそういうアジテーションはウケが悪い。ウケるのはどこまでも個人主義的な「意識を高く」するような自己啓発くらいなものである。

前者と後者の間の時代、以前「北海学園の全盛期」呼ばわりした昭和60年代に広がった集団主義と個人主義の間をとるようなこの解決策はその後の社会に薄く広がった。
それは例えば21世紀初めの北海学園北見大における、研修旅行や職場見学を実施した学生に単位を与える「ポイント制」であり、就職のための(名目上はここまで明け透けには表現していないだろうが)なんとかスキル講座などであり、もはや“体系的な学問の修得”はすっかり後景化してしまったのだ。

かつて規律/訓練型の社会とともにあった(時にポツダム自治会とも呼ばれた)学生自治会は後景化し、ポスト市民社会でもある環境/監視型社会にふさわしい「ナッジ」などの方策が前景化するようになった。
その時代にはもはや「他に向って誇示したり存在を主張するようなそこいらのお祭と違う友情の集りだし、やがてはふるさとになる大学の発展を、そして伝統を作り上げるためのお祭り」(池田善長学生部長)を目標とするような大学祭はそのセルフパロディと化し、むしろ就職活動のための主体性やコミュニケーション能力を成長させ、北海道の未来につなげるための(札幌近郊10校学生合同の)「合同大学祭」のようなイベントすら開催されるようになった。

●学生新聞の『第二の再刊』


1990年から1年間の断絶を経て活動を再開したⅠ部新聞会は紙面の多くを写真、特に活躍した人や団体の紹介記事や十月祭を主とするイベントものに割くようになった。この歴史の陰に隠れた「第二の再刊」以降2019年までその性質は維持されていた。
 それまでの学生新聞では何らかの出来事や行事・イベントがなくとも本学や本邦や本道の性質や問題に関する「調査」を行い記事化する、いわば「調査報道」を行っていたのだが、「第二の再刊」以降はほとんど見られないようになってしまった。これ以降の学生新聞は本学(というより「学園大」と呼ぶべきか)の表層を撫でることに特化したメディア、そして今世紀に入るといよいよ地域のカラフルなミニコミ誌とそう変わらない紙面構成となってゆくのだ。
 何故このようになってしまったのか。もちろん「時代の流れ」もあるだろう、しかしそれだけではなく、再刊第一期の途中から発行されていた「ガリ新」/北海学園大学新聞謄写版/週刊北海学園大学新聞/学園ニュース(全136号のうち30号以降の大半が新聞会部室に現存)が「第二の再刊」以降発行されなくなったからではないだろうか。ガリ新は主に「新聞会体育部」や「新聞会社会部」名義でスポーツや部活の試合の結果速報を出したり、学園に関する記事(速報性を重視したためか時たま発刊後に訂正することもあった)を出していた。つまり速報性を重視した簡易なガリ新と、手間と時間をかけた「本紙」で役割を分担していたのだ。私はガリ版刷りが完全に廃れた一方でインターネットが普及した今こそ速報性と調査報道の両立をすべきと考える人間である。
 もはや「全学」で何かを成し遂げるという意識などなく、「何か」を成し遂げた、つまり(学内限定ではあるものの)「何者か」になれた人間にしか目を向けなくなった学生新聞。全ての従来型の差別構造を薙ぎ倒し「魅力」が先進国の大部分を支配する、私たちの生きる21世紀への道は既に開けていた。

 また、あの「1968年」に(おそらくは)学生新聞/民青へ対抗するために創刊された『学報』もまた「第二の再刊」を前に、学生新聞と学生運動の衰退を見届けるかのように、1987年12月20日付の第30号(この号には一部学生自治会委員長のコメントまで掲載された)より後、12年間発刊が途絶えることとなった。1999年3月31日付で、つまり法学部政治学科の開設を目前に復活して以来現在に至る『学報』はそれ以前の、いかにも「教官」的な学問への取り組みなどを語る、朴訥でどこか魅力的な紙面とは全く異なり、『再刊』と同じような広報誌的な記事が前面に出るようになった。

●「地域」のための学科たち


 1999年春、本学法学部に政治学科(Ⅰ部・Ⅱ部)が設置された。今でこそ法律学科より単位取得が楽で人気のある学科という印象しか共有されていないものの、設置された当時は「東北以北初の政治学科」「地域のための学科」として法律関係のプロを育てる意識のあった(「少数精鋭」意識すら持っていた節のある)法律学科との差別化が図られていた。さらにこの年には学芸員養成課程と社会教育主事養成課程が開設されている。これらを経た学生の活躍する舞台はほとんど明確に道内自治体が想定されているだろう。これまでも本学は陰に陽に「北海道のため」の教育を施してきたが、それはあくまで全国的に通用する人材を育てた上で、道内で働いてもらうという建前であったのが、気が付けば最初から道内で働くことに(中途半端に)適応した人材の育成に舵を切っていたのだ。それは全国的な流れの中に呑まれた本学がいつしか自らをその世界のパイオニアだと思うようになったからだろう。ただ、それまでの「お堅い」歴史があるためか、その後も本学は福祉や「地域創造学部」などの開設には踏み切らなかったのだ。歴史とは皮肉なものである。
 そしてついに、北海学園北見大学の30年の歴史に終止符が打たれる時がきた。
 

●北見と北海―北海学園北見大学から北海商科大学へ


その兆候は以前から見られた。学園大の新学部増設のために徐々に札幌に移される定員と、そして2002年度を最後に学生募集を停止、2004年9月30日に廃止された北海学園北見短期大学(旧北海学園北見女子短期大学)などがそれにあたる。

●統制期の学生新聞―不偏不党にして埋没すー


 北海学園大学新聞はもはやミニコミ誌のようで、しかしそうとは言い切れず、かと言って一般的な商業新聞とも言えない。結局類似例が見当たらないので「学生新聞」としか言えない。理念の結果ではなく、単なる状態/「なれの果て」としての学生新聞らしさを獲得したのだ。21世紀の本学から「歴史」を紡ぐだけの出来事や流れを見出すことは難しい。なので、時代を大きく飛ばして2018年から2022年までの学園について、学園史と深く関係してきた私自身の体験に基づき語ることをもって最終回(学園らしく「2部構成」)としたい。私の生きた時代はちょうどコロナ禍によって真っ二つに割れているから、この時代を語るべき世代であると言えるこの幸福を噛みしめながら稿を進める。

「本学には、志願者に対する特種な優遇制度は一切存しない。したがって、特別入学にともなう暗さが全くない。本学は、公正に志願者を選抜することを通じて、大学生のレベルを高め、ひいては、大学全体の資質水準の向上をはかる見地に立っている。このことは、かつて、北海道新聞の「卓上四季」が、「あたりまえといえばそれまでだ。しかしこの“あたりまえ”がなかなか実行されないことに問題がある」(昭和四二年一月二五日付)という形で取りあげた。」

(1968年11月5日付『学報』第2号より)

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