学生新聞に見る北海学園七十年史〜(六)“大学紛争”の時代① 赤い青と学ラン、そして空白(前編)1960~1966〜
1 “政治の季節”と時代背景
1965年に戦後日本はようやく「成年」に達した。新聞会その他本学左派学生は昭和40年代の多くの時間を学内民主化闘争に費やすことになった。この時期には戦後の第1次ベビーブームで誕生した団塊の世代(狭義には1947~49年生)が(その世代のうちの半数未満とはいえ)多く大学に入学し、全国的に大学の“マスプロ化”という現象が発生した。大学の講義はこれまでのような少人数を相手とする“人間的”な授業から大教室でのマイクを通じて何十年も使い古した講義ノートを読み上げるだけの面白みのない講義に———というのは、マスプロ講義の典型的な語られ方である。大勢の新入生を収容するためにオフィスビルのような校舎か、プレハブ校舎が建設され(本学においては二号館や三号館がこの時期の建物)、そのためもあって学費は大幅に値上がりし、学生の不満は溜まるのであった。
ここで私が本学版“政治の季節”を「昭和40年代」と記したことを疑問に感じた読者も多いだろう。一般的に学生運動が盛んだったのは60年安保から70年安保(長くともあさま山荘事件のあった1972年)まで、つまり広い意味での「1960年代」のことではないのか?
そもそも本学における学生運動は、その表面的なスローガン等の一致とは裏腹に他大学とは性質も経緯も異なる。同時期の「北大闘争」において北大全共闘と日本民主青年同盟(民青)、そして道警機動隊の暴力が吹き荒れたのに対して、本学における学生運動は(一時期は数百人規模の学生が封鎖などに参与していたにも拘わらず)全て警察を含む外部勢力の導入なしに解決したことは特筆すべきだろう。
本学の一部自治会執行部は長らく学生新聞紙面の盛り上がりとは裏腹に全学連とは距離を置くなど「保守的」な執行部であったと言える。その後も体育会系を支持母体とする執行部が数年ほど続いた。そもそも創設期の本学は北海・札商の出身者が学生の大半を占め、それらの高校は戦前よりスポーツで有名だったことを考慮すれば、新しい北海学園の大学の自治会が運動部(特にバレー部)を中心に立ち上げられたことにも納得がいく。しかし、時代は既に戦後生まれのベビーブーマー達の入学を控え、かつ大学自体も創設期を脱しつつあった。この時代に北海・札商への「配慮」が現役学生に好意的に受け入れられる余地は少なかった。
この体制が崩れた最初のきっかけは1963年6月の自治会渡辺執行部のリコール決議だった。このリコール決議に対して渡辺執行部は居直り、大学祭実行委員長(1990年代前半までの十月祭実行委員会は毎年自治会関係者を中心に組織されるものだった)などのポストを占めることによって実質的な自治会運営を継続した。しかしその混乱もあってかこの年の十月祭の開催は11月にずれ込み、「大学祭」と再改称された。
その後も体育会系自治会執行部委員長の時代は続いたものの、新聞会・厚生委員会・生協などの学内左派勢力の伸長に、体育会は傘下各部の動員力をもって対峙し、かろうじて自治会執行部委員長選挙に勝つほどまでに一般学生の支持を失いつつあった。
そんな折に発生した学生運動が「応援団解散運動」である。
2 応援団解散運動と左右学生の衝突
1954年の第3回大学祭の運営の功を認められたことによって創団された本学応援団(現在の正式名称は北海学園大学全学応援団指導部)はその成り立ちの経緯もあってか、現在に至るまで北海学園大学一部自治会規約に「応援団は全学生を対象」(第六八条第一項)とあるように「(全学)応援団」の「指導部」と規定されている。つまりこの記事を読んでいる北海学園大学1部学生は全員「応援団員」なのだ。さらに同条の第二項には「応援団指導部ならびにチアリーディング部は真に学園の面目と各行事に協力することを目的とするが、学内の秩序と真にその指導精神を生かし本会会員の規範となり、対外的にはその力を発揮し各種の任務を遂行し、その活動方針は会則に基づくものであり、自治会執行部との関係はその良識をもって適切に処理しなければならない。」とあり、意外なことにその主たる任務は「応援」ではなく「指導精神を生かし本会会員の規範」となり「学内の秩序」(の維持)であることがわかる。
この何気ない条文が現存していることから二度の自主解散という表面的な勝利(と自治会執行部との協力義務の明記という成果)を収めながらも本質的には「民主的応援団」を建設し得なかったことが伺われる。
1964年秋に開催された東京五輪においてソ連を破った大松博文(鬼の大松)に指導された「東洋の魔女」の勝利もあってか、日本国内でスパルタ指導が持て囃されるようになった。期を同じくして本学応援団も組織を強化し、1963年には全日本学生応援団連盟の行事を本学において開催するほどにまで成長していた。
そんな上り調子の応援団は伝統的に本学学生に対する「歌唱指導」を担っており、一般学生との接触も多かったため軋轢も多かったようだ。
新聞会と社会科学研究会を中心とした応援団解散運動は一般学生の支持を得た「暴力追放委員会」の活動もあって二度も応援団を自主解散に追い込むまでの盛り上がりを見せたものの、その後沈静化し、応援団の「指導」性の剥奪と体育会系サークル化というラディカルな解決策にまでは至らなかった
この運動において特筆すべきは解散運動を推進した勢力でさえ「民主的応援団」の建設を訴えるという形で応援団自体を必要としていた点で、実際に応援団解散中に開催された対東北学院大学定期戦の応援のために応援団OBの指導による「特設応援団」が設けられた。
3 クラス・ストラグルの時代へ
また、この解散運動において初めて「下」からの学生運動の担い手としての「クラス」が注目されることとなった。運動のもう一つの大きな担い手であったサークル(しばしば似た思想的傾向の人が集まったりする)とは異なり、全学生が必ず所属するクラスにおいて自治活動が活発化することは、“民主的な学生自治”の第一歩を刻んだことの証拠たり得るだろう。
(この当時のクラスは現代の経済学部における基礎ゼミナール、法学部や人文学部における基礎演習のような役割を担っていた。ちなみにこの頃の学生新聞には全新入生の名前がクラスごとに掲載されていた)
クラスの「全学生参加」という特質に着目し、活用しようとしたのは何も学生運動の推進者たちばかりではなく、マスプロ化する大学の中で本学学生による犯罪を防止しようとした大学当局(教授会勢力)側もまた然りであった。
特定の教員の悪口に終始し、拙速であった1957年の学生会蜂谷執行部による「民主化運動」と比べて、社研や新聞会を中心とし、同じ本学学生を“敵”とする困難を乗り越えたプレ「学園民主化闘争」の方が、特定の“民主勢力”と暗に協力したためか、いたずらに学外や大学当局を敵にまわすこともなく、鮮やかな勝利をおさめたと言えるだろう。
かくして学内の「右翼」をすっかり弱体化せしめた学内(穏健)左派学生たちは、1966年の自治会執行部選挙に勝利し地盤を固めた上で、ついに(新左翼の妨害に対処しつつ)当座の「本丸」である学校法人北海学園理事会との闘争に挑むこととなる。
その“堅実さ”は「大学解体」を呼号して無限の自己否定と自己肯定に走った東大全共闘とはもちろん、戦略などまるでなかった六〇年安保の全学連主流派(ブント)とも異なる。むしろ1969年の“北大紛争”において左派よりの堀内寿郎学長と協力し、キャンパスを封鎖ししばしば機動隊と対決し火炎瓶を投げた新左翼の北大全共闘と闘い、時にバリケード解除までやってのけた民青系北大生たちとよく似ているのだ。偶然本学の新左翼勢力は全共闘を(実質的には)形成しえないほどに小さく、北大には全共闘があったにすぎない。
「保守反動」の北海学園理事会から北海学園大学を取り戻すという大義名分を掲げた彼らは北海高校の自然科学実験室の拡充については、軍国主義化に奉仕する実用的工業教育の危険性を云々しながら、より直截的に自民党道政の要請に応えた同時代の学園大工学部の開設そのものは否定しえないし、戦時中の札幌商業学校の豊陵工業学校への改組については何も知らない。北海学園大学の“大学紛争”について、その“限界”を知らない限りは何一つとして本質的なことは知りえず、ただ世俗的な学生運動のイメージを豊平キャンパスに投影しているだけにすぎないだろう。
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