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学生新聞にみる北海学園七十年史〜(五)目指せ道民の「総合大学」一九六四〜

「最近中央の大学が数年後には本道へ進出してくるといわれ、各大学の動きもみられ始めた。日大系の旭川女子短大が今春設立され、東海大学附属高校も今春募集し数年後には東海大学が設立されるものと思われる。(中略)このように時期的にみると本学も総合大学への足掛りとしてこれら東京の資本攻勢に対抗する基礎固めをしておきたいという考えの上にたち、現状では満足できる用意ができないまま法学部開設をしたものと思われる。」


(『“法学部、今春より開設” 総合大学完成めざす』学生新聞第64号 1964年3月1日付 第一面より)


 開学から長らく(商学部のみの小樽商科大学のような)経済学部のみの単科大学であった本学も札幌北海学院時代の経済・法文・工の3学部体制を思い出したかのように「総合大学」への脱皮を指向するようになった。

 まず1962年に陸上自衛隊札幌駐屯地向かいの警察学校跡の土地を道から借り受け(旧校舎は払い下げ)北海短期大学土木科を開校。現在の本学山鼻キャンパスのはじまりである。なおこの開校には高度経済成長によって増大した道内土木技術者の需要への対応を道から求められたことが大きく関係している。

 北海短期大学改め北海学園大学短期大学部の廃止された1968年に土木工学科(定員60、現在の社会環境工学科)と建築学科(定員60)から成る本学工学部の設置が文部省から認可された。申請時点の学部名は「建設工学部」であったが、前例が無かったため、文部省の指導により現行の学部名になったという。なお初代工学部長となった伊福部宗男氏の実弟にあたるのが映画『ゴジラ』(1954年)のテーマの作曲などで有名な伊福部明氏である。

 ちなみに現在清田グラウンドとして知られる校地は、この時不足する校地を整備する義務によって整備されたものである1970年に就任し、1974年に急死するまで学校法人北海学園の理事長職にあたった小川穰二工学部教授(元北海道開発局局長)は、当時の学生運動の影響を避けるための大学郊外移転の風潮に影響されたのか、清田校地に本学を全面移転し学部を新設するという遠大な構想を有していたとされる。もしこの時に本学が安易に移転していたら間違いなく地下鉄駅直結とはならず、札幌大学や札幌国際大学と仲良しこよしのキャンパスとなっていただろう。

 工学部(に繋がる短大土木科)の次に設立されたのは法学部法律学科であった。1963年夏に学内に「法学部準備委員会」が発足、1924年から北海道帝国大学農学部農業経済学科の中で本道唯一の法律講座を長らく担当していた小林巳智治本学経済学部教授が(「北大で永く同じ教室に勤められた上原学長」よりの「懇請」もあって)中心となって新学部開設に向かって動き出し、翌年1月には文部省により認可された。

 この開設の背景には当時本道唯一の法学部であった北大法学部の入学定員がたったの80名であったことがある。本学お決まりの売り文句がまた有効打となった形となる。ただ、この時謳われた将来的な学園構想の中にある「建設工学部」の開設は挫折し、政治学科の開設は学部開設の35年後の1999年まで待たなくてはならない。

 現代の本学学生に「経営学科の開設はいつか?」と訊いたところで、まず答えられる人などいるまい。いたところで経営学部開設の2003年と答えるくらいだろう。だが、意外なことに本学の経営学科は「経営学部経営学科」であった期間よりも「経済学部経営学科」であった期間の方が2倍近く長いのだ。

 いつもの「北大の入学定員不足」の亜種である「小樽商大の入学定員不足」を理由に1966年に一部経営学科(定員150名)と二部経営学科(定員120名)は開設され、経済学科も同数の定員となるように定員数が増やされた。開学から8年間は2年次まで(つまり教養部にいる内は)学科を分けなかったようである。

 悲しむべきことに、本学の母胎となった北海短期大学経済科(二部のみ)はこの時学生募集停止となっている。経営学科開設のための経済学部の教員陣等の強化のためである。似た現象は2003年の一部経営情報学科の開設時にも発生し、この時は(開設の前年に)北海学園北見短期大学(経営学科のみ)の学生募集が停止されている。ただしこの時は北見短大の廃止が先であり、短大教員のポスト維持等のために本学経営学部経営情報学科(と玉突きのような形で経済学部地域経済学科が)開設されている。「歴史は繰り返さないが韻を踏む」という言葉を思い出さずにはいられない。

 ただし、良いこともあった。二号館の建設である。さらにこの時期には現存する総合体育館も建設された。当時の本学はスポーツ特選制度が1966年に廃止が決定され、対東北学院大学定期戦には負け続けていたのにも拘わらず「スポーツ大学」と呼ばれており、ようやくその内実が整ったのだ。

 ついに経済・法・工の3学部から成る総合大学となった本学は三部長制を脱しなくてはならなくなった。これほど教職員数も学生数も増えたのに「学務委員会」だけで乗り切れるはずがないからだ。ましてや当時は学生運動の盛んだった頃であったからなおさらだ。

 1964年4月1日に、教養部長・経済学部長・法学部長・北海短期大学科長・短大経済科長・短大土木科長のポストが突如として新設された。この日から翌年にかけて学部事務長や学長が兼務しない形での開発研究所所長などのポストも誕生した。

 大学もどきの私塾(各種学校)でしかなかった札幌北海学院の開学から15年が経過し、ようやく本学の教職員組織が「総合大学」の器を成しつつあったのがこの時期(昭和40年頃)の特徴と言えるだろう。

 しかし、この頃の本学にはまだしっかりとした帳簿が存在せず、プール制と呼ばれる札商・北海高・学園大で統一された予算運用システムが続いていた。学校法人北海学園の理事長と北海学園大学の学長もまだ同一人物であった。この歪みに対する不満と中央の大学らしい学生運動への羨望が溢れる昭和40年代が幕を開けた。

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