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学生新聞に見る北海学園七十年史(七)“大学紛争”の時代② 赤い青と学ラン、そして空白(後編)1967~1970



「社会一般の中にはヘルメットをかぶって、ゲバ棒をもつのが学生運動であるかのように、マスコミによって流されている。しかし本当の学生運動というのは、われわれの身近にある問題に疑問を抱き、要求を出し、それを少しでも解決して行こう。そういうことが学生運動になっていると思います。例えば文協が、サークル部室に暖房をつけて欲しいと要求している。それも一つの学生運動だと思うし、大教室で勉強している学生が、先生の声が聞こえないとか小教室で勉強したいという要求をすることも学生運動だと思うのです。だからゲバ棒を持って暴力的なものが学生運動だと、国民に対して報道されていることには疑問をもちますね。」

(黒畑俊一:新聞会 『座談会 飛躍・発展する学園大学を』学生新聞第93号 1969年5月10日付第二面より)



「六四年十二月再建以後の共産党・民青系全学連は、共産党同様、三派系、革マル系全学連に対して「トロツキスト暴力集団」との非難を行ない、学生運動を革命闘争あるいは階級闘争とは規定せず、革命闘争の条件づくりとして、学生の身近な要求を取り上げる「民主化運動」「日常要求闘争路線」へと、完全に転換した。砂川や佐世保闘争などで、共産党系全学連が三派系全学連の警官隊との衝突をよそに、共産党系労組、党員集団と“整然デモ”を行ない、デモ・コースの最終地点で予定どおり解散するといったやり方にも、それは如実に現れている。」

(高木正幸『全学連と全共闘』より)




 1967年に理事会が「図書館・体育館の設立」「経営の赤字解消」「人件費の増加」を理由に35000円の学費値上げを発表。以後学費闘争が展開されることとなる。

 この年の11月の自治会委員長選挙は「学費値上げ絶対阻止」を掲げた友田晶の勝利によって幕を閉じた。学費闘争はいよいよ激化する。

 翌68年2月7日には全学投票によって「スト権」が確立。この時の学生新聞に掲載された新聞会・文化協議会・厚生委員会連名の決議文の影響もあってか、以後学生たちによって試験ボイコットや工学部入試阻止などの強硬手段によって学費値上げ阻止のための闘争が展開された。

 この中で三一番教室(この頃は現在のコンピュータ実習室Bにあたる部分も含んだ「大講堂」だった)に上原学長(理事長兼任)が「大衆団交」のために長時間監禁される事案が発生、既に80歳代であった学長は体調を崩し学長職および理事長職から退き、名誉学園長となった。

 この時の学費闘争において注目されるのは、学費値上げの発表に際して真っ先にこれに反対する決議がクラスからなされたことである。開学当初は存在しなかったクラスが編成され、重視されたのは間違いなく本学のマスプロ化の産物であり、それが皮肉にも「○○という団体に所属する★★」ではない「学園生」という半ば匿名化された「名も無き市民」にも似た存在を生み出したのではないだろうか。学生は自らの意思によってはクラスを選び得ず、全く偶然に同じクラスになった学生と共に考え、学び、過ごす環境というものが抽象的な「北海学園大学」という存在を意識させるのに向いていたのは想像に難くないだろう。

 これまでの本学は華々しい学術的な実績を有する北大名誉教授の上原学長とその学閥的直系に位置する池田善長経済学部教授(開発政策論講義の初代担当者)が中心となっており、寡頭制にも似た大学運営の属人性(先述の三部長制などに顕著に現れている)を脱却する契機となったのがマスプロ化である。このことは本学が青年期(1968年は短大開学から19年目となる)を抜けて現代までの長い壮年期に入るきっかけともなったと言えるだろう。(本学において教授会自治が実質的に成立したのもこの頃のこと)

 この傾向は学生側もまた同じで、サークルや諸団体の創設者の直接的な影響(指導・薫陶)を受ける機会が少なくなるにつれて、「属人性」を脱しつつあったようだ。どの時代のどのサークルであれ、創設期は創設者とその弟子たちという雰囲気の中で活動しがちであり、現代では「老舗」と呼ばれるサークルもその初期においてはその雰囲気に包まれていたことは想像に難くないだろう。

 ストライキの解除のすこし後の1968年夏に創刊された学報や、学生新聞を中心に本学でも「一般学生」という用語が(体育会系クラブにも)左派勢力に所属しない学生という意味で頻用されていたのもこの頃のことだ。


 さて、この連載の“第一部”の最終回を目前に、当時の学生新聞(北海学園大学1部新聞会)の政治的関係について語らねばなるまい。50年代のうちは大学当局と友好的な関係を構築していた新聞会であったが、1961年頃から(一部)自治会執行部委員長選挙報道において、体育会などのクラブの組織票によって選出された5代の執行部に対する強い批判が継続して見られるようになった。それ自体は「民主化」を掲げる新聞会としては当然のようにも思えるが、この時期から左派の新星映画社や共同映画の作品広告や日本共産党に関係する人物の寄稿が増加し、1970年5月27日付の学生新聞号外以降はしばらく民青系全学連(全日本自治会総連合)機関誌「祖国と学問のために」の(北海学園大学一部自治会執行委員会機関紙部名義の)広告が掲載されることとなる。(その一方で本学OBを「産業下士官」視していたであろう日産をはじめとする自動車ディーラーによる就職広告も激増するのだが)その傾向の著しい例として、1971年6月23日付の学生新聞第105号の記事における「なお、二十日発行された日本共産党北海学園支部政策は、中教審森本構想と具体的に対決する財政問題の政策が新らたに提起されている。一読をされたい」といった記述などがある。その他にも傍証はあるが、挙げればキリがない。この傾向は1976年の新聞会の消滅まで続くこととなる。

 昭和40年代に応援団解散運動などを通じて一部新聞会としばしば“連帯”したのは英研や社会科学研究会、北海学園生協、(一時期「学生の勉学生活の向上をめざす」と「日本の平和と民主主義を守る」という二つの柱を基礎に活動していたと称する)厚生委員会などである。特に社研は二部社研が部誌において、北海中学校出身の英才にして有名な「日本資本主義発達史」の筆者であり、戦前の共産党の指導者の一人であり、1934年に33歳の若さで品川警察署の拷問によって死亡した野呂栄太郎に関する行事を、「社研最大の行事である栄太郎祭」とする団体であり、学生紛争においても一貫して“左派”のアクターであり続けた。

 ここまでの記述を読んで「なるほど学生新聞は新左翼だの連合赤軍だの東大全共闘だのベ平連などと組んでおったのか!」と思った学生もいるだろうが、それは早合点である。現在ではあまり語られることのない戦後左翼の一側面であるが、応援団解散運動後の昭和40年代の学生新聞の紙面ではむしろ(社共共闘期を除いて)「革新を装う社公民(※社会党・公明党・民主社会党)」(学生新聞第105号/1971年6月23日付)というのは序の口で、「デマ、デッチ上げ、暴力と民主主義破壊 恐るべき革マルの策動、明るみに」(学生新聞第124号/1976年2月18日付)だの「大学運営を民主化へ トロツキストを断固排除へ」(学生新聞第92号/1968年11月30日付)や「統一戦線を破壊 分裂と挑発の極左日和見」(前出)など、共産党以外の既存左派や革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)・中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)などの(有名なものもそれ以外のものも)新左翼諸派を罵倒しており、革マル派と中核派との間の半世紀にわたる内ゲバ以上の、本質的な党派性の違いが見られる。

 そもそも全学連が1948年に発足した時点では日本共産党やその指導下にある民青(日本民主青年同盟)の影響を大きく受けていたものの、1950年代前半の共産党による武装闘争やその後の55年の六全協(日本共産党第六回全国協議会)による大幅な路線変更に対する学生党員の失望などを経て分裂の徴候を見せていた。六〇年安保時点で全学連主流派を掌握していたのが共産主義者同盟(第一次ブント)の唐牛健太郎(北大教養出身)らで、

この時既に民青系学生は全学連の中でも“反主流派”にすぎなかった。

 この時期の“全学連反主流派”に対しては学生も学生新聞も冷淡で、日米新安保の国会自動承認後の1960年9月10日付の学生新聞第48号内『中評で執行部リコールさる 裏面工作表面化す 全学連反主流派と結託か』によれば自治会執行部の人間が(個人的に)日本共産党青年部や日本民主青年同盟に加入したかどで、自治会執行部を(中央評議委員会で)あっさりリコールしてしまった。

 しかしその後5年以上にわたって“保守的執行部”が続くと流石に新聞会としても面白くないのか、次第に批判を強め、1963年10月30日付の学生新聞第72号では自治会選挙を目前に、異例中の異例である「島本編集長就任アピール」を掲載。

島本編集長はこの記事中では無難(?)に「学新(学生新聞)理論」と自治会について語っていたが、次号ではなんと彼が体育会系候補と同数の票を獲得しながら決戦投票で敗れたことが判明。ついに学生新聞はその党派性を剥き出しにしたのである。


選挙前(72号)


選挙後(73号)

 1962年に民青系の平民学連(平和と民主主義を守る全国学生自治会連合)が結成、1965年にはこれを母体として(民青系)全学連が“再建”された。当時既に革マル派全学連が存在し、後に中核派などからなる三派系全学連が結成されるなど、既に「全学連」は分裂しており、その中でも民青系は新左翼諸派に対して「トロツキスト暴力集団」と非難し、学生運動を階級闘争ではなく、身近な問題を取り上げる「民主化運動」や「日常要求闘争路線」へと完全に転換した。

 本学では東大全共闘や日大全共闘などのように「参加したいヤツだけ参加して連帯する」というような自由参加スタイルではなく、入学と同時に加入し、大学当局が会費を代理徴収する全員参加型の自治会が無条件に肯定され続けていた。学費闘争や道路(拡張)闘争にせよ、それらは政府・自民党が推進しているとされた「中教審路線」の北海学園版であるらしい「森本構想(二十年構想)」の打破に目的意識が収斂していくのがこの時期の「民主化運動」の特徴で、どこまでいっても(数年後の大学関係者の怨嗟の声とはよそに)比較的とはいえ穏健なものであった。

 「北海・札商重視の学園整備」のための(大学)学費値上げが批判される中で、1970年4月1日には本学大学院経済学研究科経済政策専攻修士課程(入学定員15)が北大大学院に次ぐ全道二番目の、私大としては初の大学院として設置される。さらに同日には経済学部と法学部に限り司書課程も設置。これらは一般的な“学園生”には今も昔も関心をもたれないのか、大学当局の広報メディアである『学報』第6号(1970年7月1日付)でそれなりに取り上げられたものの、学生新聞では全くといってよいほど取り上げられなかった。

 やがて(運動としては)挫折する、運動部中心の文化を色濃く残す“封建遺制”の象徴としての「北海・札商」とそれを擁護する北海学園理事会を打倒し、戦後史の正統な民主主義の伝統の上に燦然と輝く北海学園大学を建設しようとする情熱は、自らと(本学の発展という)その成果を戦後史の伝統の上に位置付けることを完全に忘却することと引き換えに、明治以来の北海道開拓や近代国家建設への努力(例えば北海英語学校の開校)の延長線上にある戦後復興と高度経済成長の(無難な)一挿話として“収まった”のだ。

 平岸街道は拡張され、北海学園大学は一応“総合大学”となり、そして“前期戦後”は終わり、壮年期を迎えた戦後日本に「一般学生」の時代が訪れる。「就職予備校」化する大学、大教室でのマイクを通じた一方的な講義(マスプロ教育)、大学祭などの全体(的)行事に対する学生の無関心と個人的興味の細分化……。

私たちの生きる2020年代まで続く問題や課題の多くは1970年前後の全共闘運動期までに学生新聞などを通じて出尽くした感すらあり、それらに対峙してきた “歴史”に対する同時代的、具体的な考察を欠いたことが現代の本学に関する言説の想像を絶するほどの“貧しさ”に繋がっているのではないだろうか。


「むしろ私たちが生きる社会が直面する課題が、ここ半世紀ほどまったく変わっておらず——そしてなにより——そうした潜在する不変の構造を明るみに出し、私たちが常にそれに挑んできたという同時代史を描く営みが衰弱しているからこそ、過去の積み重ねが歴史として蓄積されない。結果としてあたかもループもののアニメのように、一定期間ごとに「同じような思想・運動」ブームが反復され、しかしまさに先行する経験を忘却しているがゆえに、挫折しては知性への信頼を損なってゆく。」

(與那覇潤『平成史——昨日の世界のすべて』より)


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