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学生新聞に見る北海学園史~(四)〈民主〉と〈愛校〉 一九五七~


 創設期より一九六四年頃まで、本学は「三部長四課長制」と通称される寡頭制によって運営されていた。三部長とは学生部長(一九五七年設置)・教務部長(一九五二年~一九六四年)・就職部長(一九五九年設置)のことであり、三部長と学長によって構成される「学務委員会」が全てのことを決めていたという。

 またこの頃の北海学園は理事長が大学学長を兼任していたとはいえ、大学側の権限は弱く、図書館長どころか「お二階さん」を脱した後に設置された開発研究所の所長まで上原学長が兼任していた。どうやらその狙いは「(学長が)自由にできる予算[1]」を確保することにあったようだが、その結果は芳しくはなかったようだ。この時期は浅羽靖の蔵書を中心とした「北駕文庫」を基礎として設置された図書館もまだ「北海学園図書館」の名で、学園大生と短大生が独占的に利用出来るようになるのは1959年の「北海学園大学附属図書館」としての発足[2]を待たなくてはならない。

 ようやく体制のかたまりつつあった本学を揺るがしたのがこの年の秋に勃発した「民主化闘争」(別称「学園浄化闘争」)であった。

 きっかけは十一月二十日の高岡周夫助教授(一九六八年に学長代理)による二年目「経済原論」講義の無届休講であった。

 二年目学生は同日中に高岡助教授の追放を求める決議文を学長に手交。この日自治会が開いた中央評議委員会で十五項目について決議、その後学生部との話し合いを経て何故か(一応講義内容が不満であるという理由はあったようだが)名生望助教授(国文学)の追放を目標に盛り込んだ闘争の開始を決定した。二十五日にはこの頃の本学では最大規模となる五三○人による学生大会が開催された。

 この一件(講義ボイコット)は道新によって十一月二九日の朝夕刊にわたって北大文学部の藤井問題と関連する形で取り上げられ[3]、北海タイムスには「キット他の大学に比べて日頃の学生の出席率もバツグンに違いなく勤勉にして石部金吉和田平助をサカサマに読むような学生は北海学園大学には一人も居ないのだろう。」などと皮肉られるなど大学の評判が落ちた、と当時の本学学生の多くは考えたようである。

 そのためか自治会は「教授会」(三部長と学長による「特別委員会」と書く方が正確だろう)の決定事項を呑むことを三十日の学生大会で決議し急転直下の解決となった。

 結果的にこの一件は全て学長に委任され、学生側の処分者はなく、高岡助教授の年度いっぱいの休講、名生助教授の学生主事解任という微妙な結末を迎えたこととなる。

 特筆すべきは三十日午前の学生大会の結果を受けて同日中に学生新聞第二九号が二面構成で発行されたことである。一面の殆どは今回の十日間の闘争についての報道で埋められ、二面は全学新(全日本学生新聞連盟)北海道支部加盟十紙(北海道大学新聞・小樽商科大学新聞・学大札幌分校新聞・学大函館分校新聞・北海学園大学新聞・学大旭川分校新聞・札幌短期大学新聞・十勝教員養成所新聞・室蘭工科大学新聞 ※帯広畜大新聞は欠席)による「共同デスク」の記事を掲載するなどこの号限りの特殊な熱のある紙面が見られた。

 12月15日に発行された『学生新聞』第30号の論調は全体的にこの闘争に対して批判的であり、学内の教員派閥の抗争に蜂谷執行部が利用された…と読める内容まである始末であった。(後に自治会蜂谷執行部は大学当局と馴れ合っていたと批判された)

 学生新聞曰く、この休講問題の真因は創設期よりいる教員が地盤の弱い私大であるが故の教員不足を盾に自らの専門分野ポストに新人を入れたがらず、結果として常態化した教員による地位への安住にあるという。確かに当時の高岡助教授は経済原論の他に経済統計やゼミナールも担当していたという。

 (主に北海道帝国大学農学部に連なる)縁故による採用や三部長制などの「独裁」制に起因する授業態度の悪化の解決は次項で取り上げる「総合大学」への脱皮期まで待たなくてはならない。



[1] 『学報』第9号(1973年5月1日付)内『《座談会》昭和48年3月11日 経済学部創設の頃をふりかえって』の阿部吉夫教授(農業経済学)の発言より。本文は「教職員組合が昭和二九年に結成され、公務員以上の給与支給を約束させたのが昭和三二年で、そのころ教授会の自治も一応形をなしてきたのだと思う。当時の理事長(引用者註:1948年から1956年まで務めた佐藤吉蔵のこと)は全くの独裁者で、大学が自分で決めることの出来る予算などは今よりも制限されていた。これに対して大学では学長に学部長から図書館長、開発研究所長まで兼任させていたが自由にできる予算はほとんどなかったのです。」というもので、同座談会中で高岡周夫教授(経済統計学)は佐藤吉蔵理事長について「当時の理事長は、大学を作ることには非常に積極的だったのですけれど、大学というものがわからないので私どもは非常に苦労したんです。先生方は頭の中に知恵があるはずだから本はいらない、研究室も図書館もいらない、カバンを置くところだけでいいという考えでした。先生が七人のときも十年後に三十人になったときも同額の図書費で、たしか六十万円でしたよ。」と回想している。結局この問題について、当時の大学は個人研究費のかわりに論集の原稿料を払って対処したようだ。

[2] 北海学園大学附属図書館『図書館案内 第11号』(1959年)より。

[3] 「高岡助教授の講義休講 教授会、学生側に回答」北海道新聞1957年11月29日朝刊第7面

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