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~学生新聞に見る北海学園七十年史~(14)私たちの時代(前編) 2018年4月~2020年2月



「大覚寺:学園大が第一志望だった?」
「内山田:いや。誇りだ。」

(1988年4月13日付『再刊』第44号「新入生特集豪快対談 これぞ学園大 君も続くか⁉」より)




 2018年4月。3号館[1]の西向きの階段を昇りきり、42番教室に後方の扉を堂々と開け放ち入ると、当然のように講義は始まっていた。時刻は9時13分。大学の教室には時計が無いらしいので仕方なく持参した安っぽい腕時計を見やる。俯きながら教室右方の通路を通り空席を探す。後ろから5~10列目のあたりに空席を見つけ、3人席の真ん中に座る男子学生にことわりを入れてから座る。本当は窓際の2人席に陣取って左隣の席にリュックを置きたかったのだが、それは遅刻者[2]には許されない贅沢だった。

 4月第2土曜日の1講目、講義名は経済統計学Ⅰ。高校数学の知識がまったくと言ってよいほど身につかず、国立大学商学部の受験に失敗した自分にとっては受けたくないような、むしろ苦手であるからこそ受けたいような、釈然としない気持ちでG-plus!、いやLMSから仮履修を登録した講義だ。周りに居並ぶ札幌の街の雑踏を行き交う群衆のような“学友”たちもまた、ある者は“いかにも経済学部っぽい”講義への期待に胸を躍らせ[3]、ある者は自分のように数学なんてわかんねぇやと統計にそっぽを向いているのだろうか。



 当然のことながら高等教育機関としての大学が学生に要求するのは“体系的な学習”であるから、自分のような苦手な講義を箸で皿の端に寄せて避けるような学生にも幅広く講義を受講させる必要がある。そのために本学においても学部毎にカリキュラムが存在し、それにしたがって「必修科目」を制定することが多いのだが、本学において最も歴史が古く、学生数も多い経済学部では「必修科目」が設定されていなかった。しかし制限はある。全ての講義はAからLまでの群に分類され、それぞれの群の中で一定数の単位を取得しなくてはならないのだ。しかも選択する「コース」によって分類される群が異なる講義も少数ながら存在したため、学部の広い「自由」に振り回される日々を予感させた。

 しかし、大学生活の最後まで、経済学部の「自由」さに対する愛着が尽きることはなかった。それは「所詮大学生しか向いていない人間なんだ」という自嘲と表裏一体でありつつも、遅刻すらも許容してみせる経済学部に対する寄りかかりとして行動にあらわれていた。



私は北海学園大学を好いていなかったが、しかし現代の「学園生」の大部分が大学をコケにしている以上、当然大半の学園生と差別化を図る手段として「学園」を愛しているかのように振る舞わなくてはならないと感じていた。

しかし、現代の、それも北海学園大学においてベタな愛校心を喚起しようとする運動は当然のように“お笑い”でしかない。滑稽ではないやり方で「学園生」の頽廃から逃れるためのみちは、過剰なまでに滑稽であることしかない。

そうして4月末にTwitter上で「北海学園浅羽しずかファンクラブ」[4](浅羽ちゃんFC)“公式”アカウントの開設した。このアカウントは(明言こそしなかったものの)愛校心を喚起するため、というよりは学園の歴史を知り当事者意識をもって北海学園という名の問題、あるいは“スティグマ”に苦しむ同士を見出すために活動していたため、その投稿は雑多にわたり、その迷走の中で知名度だけはそれなりに高くなった。


2018年の冬になると既存の学内サークルにあまり期待せず、閉塞から抜け出す2つの道が見えてくるようになった。まず思いついたのは学園に見切りをつけ、面白そうな(北大系)インカレサークルに入ること。次に思いついた、いや諦めかけていたのをやろうと決意したのが自らサークル(浅羽ちゃんFC)を立ち上げることだった。

 何も二者択一の道ではなかったので、結局2つとも選ぶことになる。


 1つ目の道、インカレサークルの道はあまりうまくいかなかった。まず真っ先に加入しようとしたのが北大天文サークルと北大牛乳同好会。星を見るのも牛乳を飲むのも好きだったからだが、前者は特に入る方法が見つからず、期待していた後者についても2019年になり突然「北大生以外の加入はできません」となってしまったのだからやるせない。

 その後入った北大日本語ディベートサークルについては、毎週月曜7限(学園では19時半から21時まで)の活動時間にちょうど2年次から履修し始めた学芸員課程の(出席を毎回とるような)講義と被ったため一度も参加出来ず、北大似非哲学研究会なる(風変わりな名称の)サークルには4回ほど参加し、2019年5月に北大構内で開催された“ジンパ”にも参加したものの、活動の根幹をなすカントの「純粋理性批判」(おそらく石川文康訳)輪読会については、たまたまアルバイトか何かで1週間だけ休んだところ、内容についていけなくなり以後参加しなくなってしまった。


 こうも第1の道が失敗したのはしかし、第2の道がとりあえず失敗はせず、あまり身が入らなかったためなのかもしれない。私は当初「浅羽ちゃんFC」そのものの組織化を構想していたものの、しかしこれはとても加入者のいる案とは思えなかったので、第2の案であり小学生以来の夢だった「郷土部」構想を選んだ。


 かくして2019年春に立ち上げられたのは「地歴郷土研究会Gohken設立準備委員会[5]」。この段階では実際の活動はせず、会員の勧誘のみを行っていた。どれもこれも2019年5月1日の正式設立のため、令和改元と同時に設立することで話題性を高めんとしてのことであった。

 かくして正式に設立された「北海学園大学地歴郷土研究会Gohken」はその活動内容を制限せず、とにかく「社会科系を中心に勉強会を回す」ことだけを決めて活動を開始した。名称が無駄に長ったらしいのはそのためでもあり、マチブラ部やⅡ部歴史研究会(当時は数年間にわたる活動休止期間中)や北大地理研究会との差別化をはかるためであった。

 最初の(本格的な)活動は自転車で100年前(正確には市制施行時点)の札幌市の境界線をなぞるという独特なもので、2人の参加者がいる程度には成功したものの、当初から前面に押し出していた「兼部歓迎」というサークルのあり方のせいか、それとも実際には私自身が兼部しているサークルで勧誘した人以外は誰も2年生以上の設立時会員にいないせいか、新入生会員はあまり入らず、まずまずのスタートとなる。

 私はGohkenの活動自体をただ楽しむつもりはなく、傲慢にも活動を通じて学園生を“精神的北大生”に、それかせめて学生の義務として“勉強会”程度には当然のよう(あくまで“ように”である)に耐えうる存在へと訓練するつもりであった。この試みはあまり上手くいかず、サークル内の多様性を(わかりやすく)担保するために全学部全学年の会員がいるようにした結果として会員が一同に会する機会はついぞ一度もなく、対面活動もせいぜい5人参加が平均値というありさまとなり、個人的には学園生の“限界”を勝手に垣間見た心地だった。


 2019年時点で兼部をタブー視する風潮はまるでなかったものの、実際に兼部するものは文化系サークルといえどあまりなく、当時としてはGohkenの姿勢はそれなりに画期的なものであっただろう。

 その流れの中で私は既存の(機能不全に陥りつつあった?)文化協議会に対抗し、真にサークル間の人員の交流と兼部を促進し、私の趣味ではない分野から「面白い同志」を発見するために思いついたのは「非公式サークル連合」だった。

 私自身が多重兼部していたため、2019年4月中に賛同するサークル長も複数現われ(結局各個の部員には、加盟の意思はなく、存在も認知されていなかっただろう)、晴れて取り敢えずの間に合わせ、LINEグループ程度ではあるものの、「非公式サークル連合」が発足した。

 しかし連合はさっそくつまづく。第一回の会合の会場を豊平キャンパスの文化棟を指定し、さらに日曜日と決めたためなんやかんやで私以外誰も会場に誰も来なかったのだ。

 非公式サークルリーダーズキャンプなどの企画はあっさりご破算となり、私自身のモチベーションが砕かれたため連合自体が自然消滅した。

 その後私は学生運動や学生自治会に関する知識が足らず、一部自治会執行委員長選挙が常に信任選挙であり、しかも候補は常に自治会執行部のメンバーが立候補するという実態もあって私は非公式サークル連合を通じた学生自治会の掌握というプランを断念した。

 2019年を通じて私は浅羽ちゃんFCの活動に嫌気がさし、「真面目」路線を密かに標榜して(何故かジャズ研究会のメンバーばかりだった)法学サロン・政治サロンという、Twitterアカウントにて「この大学で一番勉強しています」と恥ずかしげもなく掲げる非公式サークルの活動に熱心に参加しつつ、Gohkenの後継者育成や活性化に取り組んだ。


 結局のところ、私はほとんどの後輩と関わりをもつことが出来なかった。浅羽ちゃんFCやGohkenの活動があまりに奇矯に思われたのだろう。私はあくまで現代を生きる大学生として当然のことをしたまでだが、大学生としての文化的素養の欠ける学園生には「わからない」のだろう……などと考えていた。

 しかし、その一方で救いもあった。この時期の一般的な文化系サークル活動は良くも悪くも飲み会とたまの活動に参加さえすればよいという性質のものであったため、私のような“浮いた”学生でもサークル運営や飲み会や学生生活のノウハウをなんやかんや学べる環境があった。もし私が2020年度に入学していたならば、混乱の中でいろいろと“やりやすかった”かもしれないが、しかし基本的な学生生活のノウハウにとことん欠ける男となっていたであろう。

 こうして2019年、あるいは令和元年は暮れていく。


 一般的な学生から浮いてはいるものの、サークルなど学内中間団体での活動にはやたらと熱心に参加する少し妙な学生はいつの時代にも一定数存在するらしく、(大体の場合は)彼らにとって、既存の団体や一般的な学生が社会情勢に振り回され逼塞する中、非公式サークルやSNSを舞台に大立ち回りを演じ、浮動的な学生大衆を“かきいれた”あの、不幸にして幸福な時代はすぐそこに迫っていた。


来たる非公式サークル全盛の時代の文化的な下地となったのは(意外にも)2018年末の学内投票を経て翌2019年に発表されたコミュニケーションマークであった。

 私たちの2020年が幕を開ける。



[1] 豊平キャンパスにおいて1~5号館を独立した建物として呼称する人間は少なく、もっぱら建物として独立している6~8号館についてのみ、建物単位で「7号館のD501号室~」といったように呼ばれることが多い。

[2] この連載も実は毎週月曜日更新ということになっているものの、私が原稿を新聞会の担当者にLINEで提出する時間は月曜夜にまでずれ込んでしまうことが多い。

[3] どういうわけかこの種の学生の多くはさっさと大学の講義に“失望”して(日本においてよく見られるような自らの身体性への寄りかかりに横着したような)“転向”し、華々しいキャンパスライフを送るのだというのが私のここ五年間の持論である。

[4] 後に「北海学園浅羽しづかファンクラブ」に改名

[5] 当時から名称はうろ覚えだったので表記ゆればかりだったのかもしれない。

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