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学生新聞に見る北海学園七十年史(8)~“大学紛争”の時代③ 「民主化闘争」の終焉と「森本二十年構想」~


 

 世間では東京五輪のレガシーがどうこうという話題が一時期盛んであったが、五輪は時に都市や自然に傷跡を残すことがある。札幌五輪では恵庭岳の自然破壊などがそれにあたり、現在でもその痕跡は視認可能だという。

 その一方で半世紀以上の月日を経てなお残る五輪の傷跡を活用し、見事札幌市に「逆襲」してのけたのが本学だ。森本前理事長は自著[1]の中で、拡幅された平岸街道のために売却された校地の代替となる市有地の買収を札幌市から勧められるたびに豊平校地もしくは清田校地に隣接する土地以外はいらないと撥ねのけ続け、その果てにようやく地下鉄駅を誘致したと語っている。

 道路拡幅反対闘争の最大の敵対者であった森本前理事長が道路拡幅反対闘争における学生たちの苦悩と抵抗を盾に、学園と本学のための果実を得たらしい。この話を念頭に置きつつ本題の部分を読んでいただければ幸いである。

 

●学長交代・理事長交代

 1968年6月に二代目学長の座に、高倉新一郎北大名誉教授が就任[2]した。1883年に広島県南方村に生まれ札幌農学校で学んだ「道民一世」(「開拓者」世代)の上原前学長と異なり、高倉学長は1902年に帯広の実業家高倉安次郎の子として生まれ、北海道帝国大学に学んだ「道民二世」である。彼はアイヌ政策史に通じた北海道史研究の泰斗で、開道百年記念事業の中で編まれた『新北海道史』の編集を担当したことでも知られる。また、別の顔として北大生協にルーツをもつ現在の生活協同組合コープさっぽろの理事長を、1990年まで四半世紀も務めたことでも有名である。

 また、1970年にはこれまで理事長事務取扱を札幌商業高校(現在の北海学園札幌高校)校長と兼ねる形で務めていた野口祥昌の死亡にともない、小川穰二工学部教授が六代目の学校法人北海学園理事長に就任した。聡明な読者の中には、たった2年前に設置された工学部の教授が理事長に就任することを不思議に思った方もいるだろう。実は彼は北大工学部土木工学科の一期生で、北海道開発庁の出先機関である北海道開発局局長を務めたことのある、本道屈指のテクノクラートであった。4年後に彼が亡くなった際に「官公庁や道内経済界の人に理事長就任を打診したがことごとく断られた[3]」という回想のあるように、今も昔も権威のある人を理事長とする風潮があったようである。本学教授にしてテクノクラートである人物に理事長に就任してもらうのは、当時としては「妙案」であったのだろう。この時の理事長職に学園大の一教員が就くことが出来るという前例が、彼の次の理事長職に経済学部助教授が就任するという「型破り」な人事とその後の「二十年構想」に基づく「学園創立百周年記念事業」という名の改革を円滑化したのではないだろうか。

 また、この時専務理事に就任したのが、後に半世紀近くに渡って学園に君臨し、死後に史上3人目の「名誉学園長」となった森本正夫だ。

彼は1931年札幌郡琴似村生まれ。札幌西高卒業後に母親の「上原轍三郎先生のいる学校に進みなさい」というアドバイスに従い、二期生として本学経済学部経済学科に進学、池田善長教授のゼミナールで学ぶ。卒業後は北大大学院農学研究科修士課程を高倉新一郎教授の指導の下で修了(本学に大学院が設置されたのは1970年のこと)。その後設置されたばかりの本学開発研究所の助手になった彼は、その後本学助教授在任中に知床半島における大規模開発に関する調査などに従事、池田善長教授の指示によって観光開発に関する研究を開始する。そんな彼が経済学部教授と北海学園評議員になったばかりの1970年、本学は道路拡幅反対闘争に揺れていた[4]。


●道路闘争の時代

前年12月より自治会は市への土地売却の理事会決定に関する「公開質問状」を大学に提出、「四○時間団交」を経て闘争をエスカレートさせた。1936年の都市計画で一度は拡張が決定されながらも戦争によって流れた現平岸街道の10メートル以上の拡張が、札幌五輪にともなう都市整備の中で再浮上。道路向かいよりの民家よりも早い学園側の土地売却が自治会などに諮られることなく決定されつつあったことに対して少なからぬ学生が不満を抱き、反対運動が勃興。同月26日には学生部長・学生部委員が辞任することで、学生部にかわる交渉委員会が発足。その後自治会は全学ストライキ突入を決議、その後僅差でスト解除を決議。

この時期についての、「大学祭期間が終わり日高地方への調査旅行から帰ってくると学内が荒廃しており……」という森本自著の語り方は、これまでこのシリーズで記してきた学生運動(民主化闘争)の歴史を踏まえると失笑してしまうほど白々しく、俗流学生運動観にのっとった(風に)「学外の敵」を設定していることが彼の当時の“大学紛争の公的な鎮め方”(ストーリー)を窺わせるが、そういった語りが許容されるほど(当時の学生新聞などを精読し学内左派の内在的論理やあゆみを知らない者、もしくは学内平穏を希求する者にとっては)学内が荒れていたことの証左となるだろう。

 学費が値上げされ道路が拡張された後も「学生会館」建設を要求した闘争に実質的な勝利を収めたりしながら1975年頃まで断続的に「紛争」は続いた。



●森本理事長の就任とⅠ部新聞会の活動停止

 かくして1976年1月22日、森本理事長代理は正式に理事長に就任した。自著によれば、そのきっかけは官僚に「森本さんもそろそろ理事長になられたらどうですか」と言われたことだとか。彼の権力の正当性は官僚の一言によって担保されているらしい。それこそが色々と「ズレ」ていた民青系学生たちの森本に対する罵倒が案外当を得ていたことを何よりも雄弁に語っているのではないか。

 「森本専決体制」が確立された1976年、ついに本学学生新聞が一度、その歴史に幕を下ろした。

 その(表向きの)理由として『再刊』第1号(1977年7月8日付)の中で「新聞が公器たる役割を忘れ、一党一派の御用新聞に成り下がったところにあった」「昭和五十年秋から今日までの活動休止状態と、その後の活動停止処分(学生自治会自身の手による)は、大変いい勉強になったといえる」(熊本信夫学生部長)とされている。それでは“最後”の旧学生新聞(第124号)がどのようなものだったか、見てみよう。


昔の先輩方がこんなものを書いていたとは!と仰天せざるを得ない(現役新聞会メンバーより)

 1976年2月16日に発行された124号(特集号)は「デマ、デッチ上げ、暴力と民主主義破壊 恐るべき革マルの策動、明るみに」という大見出しにはじまり、四面に至るまでひたすら札教大(北海道教育大学札幌校。当時は現在の中央図書館のある一帯に所在)紫藻寮を根城とする革マルの暴力学生「東野」の暗躍や革マル派全学連委員長前川健の実兄が本学に入学[5]したことなどを足がかりに、本学の民主主義防衛のための革マル反対を訴えることに終わる。

 ここで今回の記事の冒頭を思い出してもらいたい。

「かくして1976年1月22日、森本理事長代理は正式に理事長に就任した。」

 ついに新聞会はこれまで六年以上の長きに亘って掲げてきた「森本(専決体制)打倒」のスローガンすら無言で放棄してしまったのだ。「特集号」とはいえ、いや、革マルの「東野」や「前川純」に関する特集号なんぞより先に、理事長就任やこれまでの対「森本」闘争に対する総括をすべきではなかったのだろうか。

 良くも悪くも(受験でどこの大学に落ちたとか仮面浪人するとか気にする学生の多い割には)本学以外の大学に興味のない本学学生が旧新聞会を見放したのも、仕方のないことだろう。

 新聞会はこれまでも「一派一党の御用新聞」のような一面があり、遡ること十年ほど前から学内“右派”によりその種の非難を浴び続けてきたが、それでも“潰される”ことはなかった。もし“潰された”要因があるとするならば、(推測でしかないが)部員がついにいなくなるほど人気がなくなった新聞会がその存続を図るために民青系の学外人を主力とする学生新聞第124号を執筆したことによるのではないだろうか。124号はその直前に刊行された123号とは“断絶”としか言いようがないほど記事の内容や傾向が異なっており、後者が山根対助教授による事実上の学生運動批判記事や全学応援団指導部団員による「私の学生生活」などを掲載していたことや、学生運動の弊害を乗り越えたと暗に主張している『再刊』でも反政権的ルポ記事は多数あったのだから、何も民青系新聞会に「軟着陸」して学生運動から「おりる」未来がなかったわけでもないだろう。ただ、彼らは“学園生”から歓迎されない形で「大学を飛び出して」しまい、組織としての体をなさなくなってしまっただけなのだ。



[1] 森本正夫(2004)『私の教育人生―北海学園と共に歩んだ五十年』紀伊國屋書店

[2] 「握手で静かに交代 北学園大 上原学長から高倉氏へ」北海道新聞1968年6月1日夕刊第7面

[3] 森本(2004)より

[4] 森本(2004)より

[5] 「革マル派委員長重体 マンションで内ゲバ 中核派の報復襲撃か」北海道新聞1974年9月24日夕刊第9面。同記事内には前川純について「襲撃された前川健革マル派委員長(二四)=元北大農学部=は実兄前川純同派北海道地方委員長(二六)元札医大、現北海学園大学=とともに、北海道が生んだ過激派の兄弟として有名。道内革マル派の勢力は道警によると、約七百六十人にのぼり“全国委員長”を出すほどの勢力を持っているが、一方の中核派は約百五十人」と報じている。ちなみに彼は1972年に札医大から退学処分を受け、札幌高裁に抗告している。

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