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1.17

阪神淡路大震災、生まれて初めて経験した大地震だった。
幼稚園の頃だったが、未だに鮮明に覚えている。当時はマンションの1階に住んでいて、母と和室で布団を並べて寝ていた。
物凄く揺れて、母に布団を被りなさい!と言われたのも覚えている。父が焦って、火の元を消しに行ったり、とにかく初めての体験で全員がパニックだった。
私は大阪だったので、自宅は無事だったが、幼稚園は休園。
腎不全のため人工透析に行かなければならない母に連れられた病院で、母の透析が終わるのを待っている間に余震もあった。待合室でずっと神戸の大変な状況のニュースを見ていた。幼かったけど、ずっと悲しい気持ちだった。塗り絵も本も読めなかった。

親戚が神戸市に住んでいて、祖母の姉は家が潰れ、下敷きになった。しかし、近所の人が潰れた一階の台所の窓から救出してくれて、なんとか命は助かった。
母へも大叔母から連絡があったが、当時は携帯電話を全員が持っているわけでは無かったから、連絡がなかなか取れなかったらしい。
大叔母は、無事だった神戸在住の息子の家や親戚の家に移住せず、避難所生活を選び、その後、仮設住宅へ移った。色々な事情があった。

大叔母が心配で避難所にも仮設住宅にも会いに行ったのだが、その時の記憶も所々だが覚えている。
避難所に行くにあたり持って行った支援物資の中に、私が愛読していた絵本を少しだけ混ぜた。
支援物資置き場?(部屋の真ん中辺り)に置いて、少ししたら絵本は全て無くなっていた。空っぽだった。母と絵本すぐに無くなったね、と話したのも覚えている。それだけ子供が多く避難していたのだと思う。

神戸の人たちは諦めずに復興した。
悲しみや悔しさ、恐怖、そんな感情は29年経っても消えないと思う。しかし、前に進み、神戸の街を諦めなかった。
29年前には産まれていない人も沢山いる。地震を知らない人も沢山いる。
大叔母ももう亡くなってしまった。
だけど、29年経っても1.17は忘れられることは無い。いや、神戸の街が忘れないようにしてくれている。

元日早々に起こった能登半島地震は、まだまだ大変な状況が続くと思う。だけど、被災された方々は踏ん張っている。
私は募金という形でしか支援出来ないけど、一日でも早く日常生活が送れるようになることを祈っています。

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