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【短編小説】ブルーベールに集う(8)

 少女はバターが塗られたパンと大きな野菜がごろごろと入った熱いシチューを置いた。

 いただきます、そう言ってスプーンを手に取り、すくって口に入れる。途端に空腹が体内を押し上げ、夢中でシチューを口に入れ、パンを貪るように食べる。
 ふふっと微笑んでいるのか、相変わらず影で覆われて見えないが、少女は満足気に想を見つめているようだった。

「ふぅ、腹いっぱいだわ。すごく美味しかったよ、ありがとう。」
「なら、よかった。おじさん、わたしお願いがあるの。」
「何かな?」

「この島から北東の少し離れたところに小さな無人島があるんだけど、禁断の場所になっているの。ブルーベールにたった一つだけあるみたいなんだけど、そこには扉があるの。エトランゼの世界に繋がる扉のようなもの。
月が消える夜、それが現われる。わたし、どうしても見てみたいのよ。でも、そこには隊員が見張っているから一人じゃ怖くて行けない。ねぇ、一緒に来てくれない?」

「そこに行けばもしかしたら帰れるかもしれないな。わかった、一緒に行こう。いつ月は消えるんだ?」
 
 今日だよ、と少女は口元を緩ませて言った。

 ぽつぽつと灯りが消えはじめる頃、ランタンを片手に住民に気づかれないよう岸辺へと向かう。昨日までの満ちた月は光の輪郭を残し、姿を消している。漆黒の闇を照らす、その光とランタンの灯りを頼りに進んでいく。
 
 海岸へ着くと先ほどまで気がつかなかったが、何隻かの舟があった。その一隻に乗り込み、パドルを漕ぐ。
 
 静かな夜に海を搔き分ける音だけが辺りに響き、北東へと進んでいく。
 
 離島に辿り着き、舟を止める。木々の茂みに身を隠しながら「扉」が現れるのを待つ。肩に止まる小鳥と不思議な少女、それと中年の男。なんとも奇妙な組み合わせである。
 あっ、と少女が声を漏らし、背後に隠れる。以前、壁の中にいた白い宇宙服を着た隊員が銃を構え、舟の上から辺りを見渡している。
 
 ぎゅっと強く握られた手に視線を向けると、少女は怯えている。想はしゃがみ込んで頭に手を置き、優しく揺する。
 
「大丈夫だ、俺もシマエもいるだろう?それに君が言い出したことだ、泣くなよな。」
 
 口を半開きにし、小さな肩を震わせ、影で見えない目元を拭う。華奢な白い腕を回し、少女は抱きついた。その温もりに、今まで想像したことのない母性的な感情が湧き上がり、想も白い首筋に顔を押し当て、目を閉じる。
 
 しばらくすると、うっすらと浮かぶ月の輪っかが海面に線を描き、広がっていく。光の線が海を二つに割いた。眩しさに手をかざしながら、その光景に釘付けになる。敵に視線を移すと、目を奪われた様子で背中を向けている。
 
 いまだ―。

 想は少女の手を握り返し、岸に止められた舟を横切り、海の上を駆け抜けた。咄嗟に、隊員が振り返り、銃を向ける。真っ先にシマエが飛んでいくと、立ちはだかる神聖な国鳥を前に銃を向けれず、困惑する。

 もう、お別れかもしれない。

 ぱたぱたと羽ばたいているシマエを一瞬、見つめてから自分たちを庇う愛くるしい小鳥の健気さに胸が締めつけられる。

 シマエ、ありがとう―。
 
 一気に光へと走っていく。突然、手を引いていた少女が足を止め、反動でよろける想の手を離し、下を向く。

「どうしたんだ?早く行くぞ。」

「おじさん、わたしやっぱり行かない。」
 
 だだをこねる少女に苛立ちながら、細い腕を掴んで再び進もうとすると、やだやだ、と激しく首を振り、声をあげて泣き出した。

「泣くな!早く帰るんだ!」

「いやだぁ、やっぱり戻りたくない!」

「どうして?!君はエトランゼだ。この世界にいてはいけないはずだ。」

「いやだ!!おうちに戻るの!」

「いい加減にしろ、亜耶!!」
 
 亜耶―。
 
 どうして今まで気がつかなかったのだろう。頭を傾け、想の腕にしがみつく少女がゆっくりと顔を上げた。影で覆われていた表情に光が当たり、はっきりと見える。小さな瞳から透明な涙が溢れ、鼻と頬を赤くして泣いているのは、まぎれもない、面影を残した幼い頃の亜耶だった―。


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