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【短編小説】ブルーベールに集う(最終話)


 「あの世界にいた子供のままなの。何かが変わったり、失ったりすることをただ見つめることしかできない子供なんだよ、わたしは。」
「・・・亜耶。」

「わたしは、ブルーベールにいた頃のエトランゼのまま。この世界でもそう。どこから来たのか、本当はよくわからない。」
「・・・。」
「ここで自然と生きてきたはずだったのに、ある時から違和感みたいなものを感じるようになった。感情が薄れて、体は中身が抜け落ちた入れ物みたいで、周囲の会話は機械的な言語に聞こえた。言葉がわからなくなる、そうすると息が詰まるみたいだった。いつもじゃない。でも、だんだん増えていった。」

 正面を向いたままの彼女の横顔を見つめる。

「・・・それで、地元に戻ったの?」

 亜耶は想の方を向き、小さく頷いた。

「本当はね、ここに通っていた頃、マスターもまるさんもこのお店も、街の中にずっとあるはずで、わたしもずっとここにいるんだって、そう思ってたんだよ。なくなる日が来るなんて考えられなかったのに。」
「亜耶、話してくれればよかった。」
「理解してもらえないと思ったから。」
「そんなことない。俺を信用して欲しかった・・・。」
「わたし、まるさんに憧れてたんだよ。」
「・・・どうして?」
「自然体なのに堂々としていて、人を引きつける魅力がある。透明な圧力でありふれたこの世界でうまく生きることができるまるさんが、本当は羨ましかった。」

 そんなことない、と言いかけた言葉は力なく笑う亜耶の表情に消されていった。亜耶の髪に触れようとした手を止め、想も視線を落とした。
 扉の向こうから白い光が溢れ、朝陽が入り込でいる。朝を迎えた外ではさえずりに混じり、稼働しはじめる生活の音が徐々に大きくなっていった。

*****

 二人の面接官に頭を下げてから退室した。一週間以内にご連絡します、と見送られながら人事担当者に言われ、会社を後にする。
 軽自動車に乗り込み、エンジンをかけてしばらく経っても鼓動は波打ち、体から力が抜けなかった。亜耶は軽くため息をつき、アクセルを踏み込んだ。
 派遣として働いていた製造会社の事務職は三月末で期間満了となる。そのため合間でハローワークに通い、履歴書の作成や面接の日程をおさえる日々が続いていた。四月からすぐに働きたいが、その望みは薄く、しばらくはこのような日々が続きそうだった。一度考え出すと不安の靄が広がり、覆われていく。それでも、進むしかないと、自分に言い聞かせて一歩づつ歩みはじめていた。

 実家の近くにあるスポーツ公園の駐車場で車を停める。温かな日差しにジャケットを脱いでから、車を降りた。
 道の両側にある並木はピンク色の蕾で溢れ、青空へと伸びている。あと何日かすれば蕾が開き、微睡む温かさの中で桜が咲き誇る。花びらが春の風に揺られ、他愛のない話をしながら歩いた善福寺川の桜が目の前に広がり、やがて滲んでいった。カバンで携帯が鳴る音がし、取り出すと丸野の名前が表示されている。

「もしもし。」
「亜耶、久しぶりだな。今って大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
「実は俺、松山に帰ることにしたんだ。引っ越しも終わって明日東京を出る。」
「え・・・そうなの?」
「ああ、俺ももう少しこっちにいるつもりだったけど、あの日、ブルーベールに行ってから瀬戸内が恋しくてさ。もともと地元で独立するつもりだったし、少し早い気もするけどいいかなって思って。」
「いつかは戻りたいって言ってたもんね。でも、寂しいな。もう誰もいないんだね。」
「お前の方が先に戻ったくせに。」

 そう言われ、亜耶は弱々しく笑った。

「大丈夫。離れても俺たちの中にはいつまでもブルーベールがある、そうだろ?」
「うん、そうだよね。ずっとある。」
「最近はどう?・・・その、元の世界のこととか、それで辛くなったりとか、大丈夫?」
「ありがとう。不思議とあの日以来、あんまり苦しまなくなった。元の世界に戻る方法は、わからない。だから、ここで生きていくって決めた。いまね、いろいろ動いてるんだよ。実は派遣の仕事が今月末までだから面接したり、そろそろ婚活もしようかなって思ってる。」
「・・・いろいろ頑張ってるな。応援するよ。」
「わたしも、まるさんのこと応援してる。まるさんが話、聞いてくれたから。本当にありがとう。」
「たとえ、君がエトランゼだとしても、この世界で生きていくのも、きっと悪いことばかりじゃない。そのことは、亜耶も十分わかってるはずだ。」
「・・・うん、そうだね。」

 しばらく沈黙が続いた。亜耶が名前を呼ぼうとすると、息を吸い込む音がしてから返って来た。

「亜耶、近々松山に遊びに来いよ。いいところだぞ、景色もいいし飯もうまい。ブルーベールの海と似てるんだ、広くて穏やかで。」
「行ってみたいけど、就活もあるし・・・。」
「息抜きも大事だろ。それにさ・・・。」
「ん?」
「・・・な、何か変わるかもしれないぞ。気分転換したら良い方向に事が進むかもしれないし、旅にはそういう力があるよ、うん、絶対そう。まあ、考えといてよ。」
「わかった、じゃあ、来週がいい。」
「へ?!・・・ら、来週?」
「え、まるさんから言ったんじゃない・・・。」
「あー、いやいや。いいんだ、わ、わかった。来週な、必ず空けておくから。」

 慌てた様子の丸野を不思議に思いながら、励まそうとしてくれる優しさに亜耶は口元を緩ませる。

「案内よろしくね!」

 明るい声でそう言うと、ふっと小さく鼻で笑い、また決めようぜ、と言ってから電話が切れた。

 マスターに導かれたブルーベールの世界は、いつまでも遠い記憶のなかにある。これから先、どうしようもなく切なさが溢れても、眩い光を吸いこんだ海と、美しい島で過ごした日々が、きっと包み込んでくれる。
 誰かの帰りを待っていた少女の前で、この世界でしか知ることのない喜びを教えてくれた人が、手を差し伸べていたのを思い出す。

 亜耶は目を細めながら並木道の先を見つめ、松山に思いを馳せる。光をたたえる穏やかな海が広がっている、そんな気がした。


おわり。

読んでいただきまして、ありがとうございました♪



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