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【短編小説】ブルーベールに集う(2)

 ビールジョッキにお通しの枝豆、豆腐サラダ、唐揚げなどが次々と置かれていく。ジョッキを手に取り、亜耶、来てくれてありがとうな、マスターに献杯、そう言って重ねた。サラダと唐揚げを手際よく取り分け、亜耶に渡す。空腹なはずだが、あまり食欲はない。丸野はテンポ良く口に入れ、ビールを流し込んだ。

 地元に戻ってほどなく、彼とマスターに一度会いに行ったことがあった。微睡む春の陽気に包まれながら、善福寺川の満開の桜を見た後にパールセンター商店街にある居酒屋で飲み、夕方二人に見送られながら中央線に乗り込んだ。

 その時から数年ぶりに会う目の前の男性は年を重ね、少しやつれてはいるものの色男に変わりはない。今でも女に不自由することはないのだろう。タバコを指で挟み、どこを見ているでもない煙に包まれた横顔が急に亜耶に向けられ、咄嗟に目を逸らした。

「食欲ない?あんま、無理すんなよ。」
「ううん、大丈夫。」
「マスター、心臓に疾患があって通院してたんだ。急性心不全が原因だったそうだ。」
「そうだったんだ。わたし、何も知らなかった。」
「俺も最近忙しくて、ずっと店にも行けてなくてさ。何もしてあげれなかった。同じ街にいるのにな。」

 お待たせしましたぁ、と金髪のポニーテールにボリュームのあるつけまつ毛をした若い店員が焼き鳥の盛り合わせを置き、空いた皿やジョッキを手際よく回収していく。まるさんは追加で酒を頼み、焼き鳥を一つ一つ串から取っていく。

「亜耶は優しいよな。」
「急にどうしたの?」
「前よりだいぶ大人しくなったみたいだけど、根本は変わらない。マスターのために来てくれた、いい奴だよ。」

まるさんは亜耶に焼き鳥の皿を渡した。ぜんぜん、そんなことないよと亜耶は小さく呟いた。

 お一人様歓迎、という文字を確認してから思い切って扉を押した。間接照明がカウンターとボトルを照らし、一人の男性客と店主が亜耶に目を止めた。やはり場違いだ、引き返そうかと思ったが、年配の店主はにっこりと笑って、どうぞ、と席に案内した。

 男性客の隣に案内され、メニューを広げた。ビール、ワイン、スピリッツにリキュールカクテルがずらりと書かれ、こんなにも種類があるのかと思いながら何にしようかと悩む。お任せでも大丈夫ですよ、そうカウンター越しから顔を覗かせる店主の声に視線を向けると、たれ目を緩ませ、歯を見せてにかっと笑った。

「どんな味がいいですか?」
「えーと、柑橘系で爽やかなカクテルがいいですかね。」
「わかりました。」

 そう言って、手際良くリキュールを調合し、音を立ててシェーカーを振る。その淀みなく流れるような、長年の熟練が体にしみついた動作に釘付けになる。あの、と低い声に亜耶は隣の男性を見た。グレーのパーカーに、髪を小さく後ろで束ね、涼し気な瞳が覗き込む。

「タバコ吸ってもいいかな?」

 あ、はい、と亜耶は答える。ありがとう、と言って、箱から一本取り出し、指に滑り込ませ、火を点けてゆっくりと煙を吐いた。何気ないその仕草にスポットライトが当てられたように、見入っていた。
 この非現実的な空間が、そう思わせているだけなのだろうか。そんなことを考えていると、目の前にレモンが添えられた鮮やかなカクテルが置かれた。

「チャイナブルーです。」

 ゆっくりと口に入れると、甘さの中に柑橘の爽やかな酸味が広がっていく。

「美味しいです。すごく。」
「それは良かったです。一人でこの店に入るの勇気がいるでしょ?」
「はい、勇気を出しました。でも、せっかく上京したので、こういうお店に入ってみたくて。」
「選ばれて光栄です。隣の彼は、まるくん、丸野想君といって随分前からここに通ってくれてるんですよ。」

 まるくん、と呼ばれた男性は照れ笑いしながら、よろしくと言った。それから、三人での会話は弾み、亜耶は「ブルーベール」に足を運ぶようになった。金曜日に行くとだいたい丸野がいて、他の客を交えて話をすることもあれば、三人で語ることもあった。

 愛媛から上京し、大学を卒業後、ふらふらとしていた丸野は友人に誘われたのがきっかけで舞台にのめり込み、しばらくアルバイトをしながら舞台に立つ生活をしていたという。二十代後半に差し掛かり、さすがに現実と向き合わなくてはと、当時デザインの専門学校に通っていた。彼は常に女の気配を纏わせていたが、駆け引きを知らない初心で欲望を孕む視線に靡く様子のない亜耶には開き直り、お前って妹みたいだなと言って、笑った。

 亜耶は「マスター」、「まるさん」と呼ぶようになり二人には何でも話すことができた。仕事の悩み、思いを寄せる同僚のこと、休日に観た映画や日々の他愛のないことも何だって聞き入れてくれたのだ。

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