ゲームの話

今更タウンではあるが、オクトラ2をコンポーザーの西木さんとディレクターの宮内さんが一緒にプレイする動画を見た。

そこで西木さんはピアノの手元を映しながら楽曲の解説をするという事をやっていたのだが、実はこれ私がゲーム音楽を作った暁にはやってみたいと思っていた事なのだ。

ゲーム音楽の作曲者本人が語りながらプレイするというのは確実に需要があると思うし、先例のない画期的な試みだと思っていたんだ。

しかし先にやられてしまった…

西木さんは数多の作曲家の中でも特に尊敬している作曲家の1人なので、私の先を越すのも仕方がないと言えよう。

そんじょそこらの作曲家がやってたら「もうってなって牛になる」ところだった(これcowcowのネタであって、昔好きだったんだよね)

動画内でAIについて言及してた訳なのだが、非常に興味深い事を言っていた。

以下は内容の一部である。(改変は加えてある)

「職業作家が依頼される音楽の中には誰が作っても同じ音楽というのが一定数あって、そういう音楽をAIにつくらせれば人間が創造的な音楽に費やせる時間が増える。」

ごもっともだと思う。

特に劇版の中には、出来るだけ主張を抑えたBGMとしてのBGMも少なくない。

それをAIに作ってもらうというのは時間的な側面や人件費から考えても、合理的な手段なのではなかろうか?

まあ音楽の創造的な部分もAIが担う可能性も否めなくはない。

だがそうなってくると、テレビやドラマ、映画にアニメ。

全ての映像作品の全ての役割はAIに置き換えられよう。

此間、自動運転が完全に可能になった時何が起こるか考えてみた。

そうなると最早車は車ではなくなり、ただもの(人間も含まれる)を運ぶだけの機械になる。

すると街は工場と化し、人間は消費するだけの存在となる。

食料の生産、搬送。
娯楽の生産、供給、宣伝。
社会システムの統括。

これら全てがAIに置き換えられれば、人間の役割は消費だけになる。

これがどういう意味かわかるか?

人間はAIに生かされるようになる。

終いに人間は自分達だけで生存する能力を失い、幼児と化すのだ!!

つまり、AIが人類の母親となる。

これが現段階での私の想定であり、絶対に迎えるべきではない未来のうちの一つだ。

未来のうちの一つと言ったのは、誰もが知っている通り未来の可能性というものは無限大である。

あるいはAIが戦争の決定権を持ち、人々はAIの代理戦争をする可能性だってあるし、あるいは(月並みな発想だが)意思を持って人類に反旗を翻す可能性もある。

いずれにせよ人は容易にAIの傀儡となり得るということだ。

人間というのは自分よりも遥かに高度な知性を持った存在には勝てない。

相手の論理に明らかな誤謬があったとしても。

それはオブライエンとウィンストンのやり取りを見ても分かるだろう?


まああまり悲観的になってもしょうがないので話を戻そう。

西木さんが「誰が作っても同じ音楽」という表現をした。

私はその時「僕の心のヤバい奴」の牛尾さんを思い出したんだ。

ああいうラブコメというのは、「創造的表現」というのはあまり重視されない傾向にある。

それこそBGMとしてのBGMの役割を重視すると、私は考えている。

牛尾憲輔という作曲家は、誰にでも書ける音楽を書く音楽家ではない。

牛尾さんはすごいんだ。

すごい人なんだ。

みんなそれをわかってないんだ!(稚児の駄々)

牛尾さんはもっと、牛尾さんにしかできない音楽を劇版という形で追求するべきだと、押し付けがましいかもしれないが私は思っている。

「ピンポン」で球が反復する音をライヒのミニマル音楽に準えたり、「平家物語」で琵琶の表現を追求したり、「チェンソーマン」でチェンソーの音とブレイクビーツを混ぜるプログラムを作ったり、「リズと青い鳥」でプリぺアドピアノを使ったり。

私はそういう牛尾さんのアーティストとしての姿勢がとても好きなんだ。


まあでも、結局はビジネスなんだからしょうがない。

誰が悪いわけでもない事はわかってるんだ。

しかし私はこのアニメを見ていると、言いようもない怒りを覚えるのだ。

背骨から這い上がってくるような、むず痒く、鈍痛にも似た怒りを。

はっきり言おう。

そいつの正体は嫉妬である。

あるいは悔恨か。

多分その両方だ。

ああ、なんと浅ましい感情だろう。

怒りというのはそう、醜い己に対する怒りなのかもしれないな。

さて本題に入ろう。

私は今switchで真女神転生Ⅱをやっている。

その前まではFE風花雪月をやっていた。

この風花雪月、紛う事なき神ゲーだった。

一周目は青ルートでメルセデスと結婚し、二周目は黄ルートでマリアンヌと結婚した。(計100時間ほど)

これはこれでまあ硬派なゲームだと思ったが、全くそんなことなかった。

第一、女性主人公があんなにもエッチな時点で硬派なわけねえだろ!!

ふざけんな!

やっぱり、「エッチ要素」というものがあるだけでゲームは途端に軟派なものとなる。

なぜならそれだけで心が休まるからだ。

いやマジで。

もしBloodborneに少しでも「エッチ要素」があったならば、私の気は滅入らなかっただろう。

それはメガテンも同じである。(エッチと言えなくもないモンスターも中にはいるが)

私はメガテン3をps4でプレイしたことがあるのだが、システムのわかり安さと悪魔合体の楽しさもあってかそこまで苦ではなかった。(オベリスクとかめちゃくちゃキツかった記憶があるが)

しかし2はキツイ…

「エッチ要素」とか抜きにして、やはり昔のゲームは不親切だし、敵は強いし、セーブポイントは少ないし、ダンジョンが無駄に複雑だし、めちゃくちゃストレスが溜まる。

やっぱ平成生まれのゲーマーにとってスーファミのゲームはキツイ。

中でもメガテンは特に。

世界観とかはピカイチなんだけどね。

まあこの不便さとかがいい味出してるのだろう。

簡単なゲームだったらメガテンじゃないもんね。

楽しさがないわけじゃない、ただそれを上回るレベルのダルさを拭い去れない。

間違いなく言えることは、switchの巻き戻し機能がなかったら私はこのゲームを投げてる。

現代の感覚からすると、ゲームオーバーになったら数時間前の地点からやり直しというのはキツすぎる。

ボス前にセーブがあるのなんて玄関に靴があることぐらい当たり前だし、あまつさえオートセーブしてもらいたいくらいなのだ。


メガテン2をやって、現代のゲームの親切さをつくづく痛感する今日この頃の俺であった。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?