画一化への恐怖
ー他人と同じであることに不満を持たないことが悲しかった。ー
小川哲の「嘘と正典」という本を読んだ。
これはその中の「最後の不良」という話の一節である。
そしてこれは私の人生を通しての胸懐と符合する。
というのも私は今までの人生を所謂「オタク」として過ごしてきた。
それは単に文化を愛する私自身の「性」の為でもあったが、同時に自身のアイデンティティを埋めるための行為でもあった。
好きな音楽、好きな小説、好きな映画、好きなゲーム、これこそが私を規定し特別たらしめる要因だと信じてやまなかった。
だが世間はどうだ?
タイパ主義、コスパ主義、数字信仰、無知を誇示する奴隷道徳で溢れかえっている。
つまり文化に対する本質にはまるで盲目的であり、文化をコミュニケーションの道具、或いは暇潰しとしか捉えていないのだ。
私はそんな軽薄さにうんざりし、世間を顧みる事なく好きなことをやっている。
「最後の不良」では「MLS(ミニマルライフスタイル)社」という会社が流行や自己主張を排除したライフスタイルを喧伝し、人々から個性を簒奪した(勿論その選択をしたのは彼ら自身なのだが)世界を描いている。
ネタバレになるのだが、この個性簒奪の真の目的は人との差異を無くしフラットにする事で世の中の潮流を気にせず自身の好きなものに打ち込めるようにする事だった。
だが流行という概念が消えたところで他人の動向というのは目に入るものだ。
更にはミニマル志向がマジョリティ化する事でそれに反発したカウンターカルチャーが現れることも必至である。
本当に差異を無くしたければ、自分以外の人間全てを鏖殺する以外にないのである。
流行を追う事の虚しさから人々を解放しようとしたMLS社も結局は俗物に過ぎなかったのだ。
そしてこの循環が嫌なのであれば、徹底的に孤立するしかないのである。
どの時代にも多数派と少数派がいて、この構図を覆すことはできない。
多数派は無個性で無知蒙昧、だが幸福であり、安穏である。
つまり何が言いたいかというと、私の孤独は謂わば必然なのだ。
人と共感する喜び、人と同じものを好きであるという安心感と引き換えに、私は只管に文化を愛するのだ。
そもそもこれだけ文化(或いはコンテンツといったほうがいいか)が飽和した社会で何かを極める、何かに耽溺するということ自体が難しい。
現代における「オタク」とは、氾濫したコンテンツの海を泳ぎきり、自問自答し本当に好きなものを見つけ、それに没頭できる特異な能力を持った人間のことを指すのだ。
大多数の人間は「人と同じである」ことに安心感を覚えるのだろうが、私逆に不安を覚える。
何故ならそれは私を「アイデンティティ・クライシス」へと陥れ、レゾンデートル(存在理由)を脅かすからである。
そんな私を尻目に彼らは今日も流行りの音楽を聴き、流行りのファッションを着こなし、流行りのアニメを観ているのだろう。
物語の最後、主人公はMLSの会員を殴る。
私も「最後のオタク」として、世の中に反抗していきたいと思う。
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