T先生

授業ぐらいでしか話したことはなかったし、その授業は週に1度しかなかった。


だから、そこまで思い出はない。

その先生を、T先生とでもしておこう。



「本校に2年間お勤めになりました、T先生がご退職されました」




古典、数学、化学……。情報。何?情報って。

予定表片手に私は半笑いをしながら心の中で呟いた。

「情報」という科目名の、その投げやり感と言ったら失礼だけれども、それがあまりにも抽象的に感じたのだ。



漠然とした情報という科目に、なにを学ぶのだろう。

まあ実際には深く考えていなかったが。


初めて会う人に、自己紹介というものは付き物である。

社会人になると特にそうだ。


〇〇出身だの、〇〇大学卒だの、自己紹介が嫌いな人も多いだろう。

高校が始まると同時に、自己紹介ラッシュが始まった。

科目ごとに先生は違うくせにクラスメイトは変わらないから、

クラスメイトのみんなは自己紹介を聞き飽きていた。

出身中学や入りたい部活動、そんなもんだった。


自己紹介は決まって出席番号順で行われた。

もちろんT先生もラッシュに乗っかった。

だがT先生は、自分の名前に加えて好きな食べ物をいうようにと言った。

前の番号の女の子が生憎欠席だったため、自己紹介は私からだった。

私は自分の名前を言った後、うなぎが好きです、と付け加えた。

「渋いねー。どこの鰻屋さん?」

「母親の実家の近くに、鰻屋があって~…」

T先生の中で、うなぎが好きというのがはまったのか驚いたのか…。

会話の内容は正確に覚えていないが会話が弾んで授業が押したことは覚えている。

たいていの先生は自己紹介を拍手1つで終わらせるが、T先生は違った。

私は自己紹介の本当の意味をそこで知った。


情報の授業と聞くとコンピュータに向かって何かを黙々と打ち込むようなイメージがあるかもしれない。

T先生の授業は、そうではなかった。

T先生は、よく情報と絡めた話をしてくれた。


T先生はあまりにも知識人であった。

先生なんだから当たり前だろ、

とかいうツッコミが聞こえてきそうだが、

そのツッコミをしている人でさえ、

痛いほど当たり前を当たり前に出来ることの凄さを実感しながら生きていることであろう。

知識人と言っても、ただ知識があってそれをひけらかす人ではなかった。


T先生の話はとにかく面白かった。

某大手ハンバーガーショップの話や、

オススメの映画の話、最新の無人飛行機の話など。

聞き手の興味を惹き、長時間座って肩やら首やらが痛いのを忘れるほどであった。

だから、情報の授業が終わった途端に背中あたりからどっと疲れが押し寄せた。

長時間体に負担をかけずに座って話を聞くことができる方法について、T先生は教えてくれなかった。



T先生の趣味は映画鑑賞だといった。

映画鑑賞が趣味の人なんて、浅い知識でただマウントがとりたいだけの人?

と思うかもしれないが、そんなエセ"映画鑑賞が趣味の人"を踏み潰すが如く現れた彗星がT先生だった。


その日は、当時新作が公開されたばかりであった某恐竜の架空キャラクターの映画について話してくれた。

なんと映画のタイトルにもなっているその某恐竜の架空キャラクターは、最新のCG技術で表現されているらしい。

CGというのは本当にすごいのだろうか、私はその技術をはっきり見たことがないので疑っている。

でも、映画好きのT先生の目を釘付けにしたのだから、きっと凄いものだとは思う。


ちなみに私は人生で映画館に行ったことは3回しかない…。


T先生は、なんと先生ではないらしい。

どういうことかと言うと、本当はエンジニアだかなんだか難しい機械系の職業であって、あくまでその職業の状態で私たちに情報を教えてくれているらしい。


毎週水曜日の午前中だけ、私たちの高校に来てまで、わざわざ。


だから、先生という職業ではないのだ。

それでも私は、先生と呼んだ。








正直、その話を聞くまでT先生のことなど忘れていた。

それくらいの関係性であった。

体育館の端で、私は風に揺れていた。

退職されたという話を聞いてから外ばかり見ていた。

肩まで伸びた髪を人差し指に絡めては解き、絡めては解き、時々爪に引っかかった。


T先生が、いなくなってしまった。


いなくなってから気づいても遅いのに。







T先生、ありがとう。

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