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射幸心


例えば出先で雨に降られた不運な女性。彼女をAとしよう。
Aは少々焦っていた。バイトの時間が迫ってきていたからである。
「早く止んでよ…」

例えば、出先で不運にも、新人ウェイトレスに、冗談のようにアイスコーヒーをかけられてしまった男性。彼をBとしよう。
彼は口先では「大丈夫です、全然」と言っていたが、内心、舌打ちを連打していた。
―せっかくのスーツをダメにしやがって。
顔はあくまでもにこやかに、しかし抜け目なく、クリーニング代を受け取れるようにした。

ここにCがいる、Cはいわゆるマイノリティで身体は男だったが、心は女性だった。多感な思春期時代、何度も性差に心を引き裂かれたCは、多少の事では動じなくなっていた。
しかし。
―自分が刺された、となると話は別である。
周囲から湧き上がる悲鳴が、どこか一枚薄皮を被ったように聞こえる。
刺されたのは右脇腹で、どうやら大きな血管が損傷したらしく、血が止まらない。遠のく意識のなか、Cは「カミングアウトすれば良かった…」と、歯噛みする気持ちだった。
※※※※
「うひょひょ」と、実に下品な高笑い。「私の勝ちですな。ミスター」
頭に被ったハットをひょいとあげる、こいつは低級の悪魔である。
そうして、こいつに唆され、賭けに興じたのは、天使見習いのサーミャだった。
サーミャは慌てて言った。「笑い事じゃない!彼、いや、彼女、死んでしまうかもしれない!!」
その言葉を聞いた悪魔―ヤーハーンはお腹を抱え、笑い転げた。
「死!?死など日常茶飯事!!いちいち動揺して、どうしてどうして大天使が目指せます?」
顔色を無くしているサーミャ。胸いっぱいに後悔が満ちる。―あぁ、神様、私が愚かでした。何も罪がないお方を…。
サーミャはただ祈った。
※※※※
実はBにアイスコーヒーをかけてしまったウェイトレスはAだった。最近の彼女には気になっている男性がいた。Cという同じ講義を履修している学生である。ふと見た、窓の外に、彼に似た姿を見て、手元が疎かになってしまったのである。
彼女のインスタグラムには滅多に目にする事の出来ない『水平環』という虹がアップされていた。

B。抜け目ない彼は、実は某病院の医師だった。専門は外科。学会の集まりの帰りに、一息つこう、と、入ったカフェで不運に見舞われた。故に、彼は時間をおよそ20分程、無駄にした。と、思っていた。
※※※※
「しっかり!もうすぐ救急車が来ます!」
Cの頬をピタピタと叩く手。その触感にCの意識が、わずかに浮上する。
―まだ、死にたくない。
Bは必死だった。一張羅に血がつく事など厭わず…医師としての彼がいた。

ヤーハーンが唆した賭け。三人の人間のうち、誰が一番幸運か?

運命という名のサイはまだ転がり続けている。
※※※※
Aのインスタグラムの写真。『水平環』は低空にかかるものである。
虹の向こうに目を凝らさないと、わからないが、暗い表情の女が写りこんでいた。
最近のサイバー捜査の発展はめざましい。この写真を手がかりに、目撃者の証言などから、通り魔たる女の早期逮捕に繋がった。彼女は感謝され、被害者やその家族からも礼を言われた。

他にも切りつけられた被害者はいたが、一番重傷だったCが乗せられた救急車にBは同乗していた。
彼は携帯で素早く自分が勤務する病院に連絡していた。
「あなたは幸運ですよ」とCに話しかける。
病院まではおよそ五分程の距離であった。

Cは夢を見ていた。自分が、憧れては諦めを繰り返していた女性の姿で、街を闊歩していた。その隣には未だ見ぬ、未来の恋人の姿が…
※※※※
そろそろ、サイが止まろうとしていた。
賭けの結果はまだ、わからない。

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

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