エホバの証人の母を持つが故にお葬式できちんとお別れ出来なかった後悔
エホバの証人は生きていく上でのほとんどの
行事やコミュニティに参加しないのですが、
私が出来なくて今でも悔やんでいることがあって、
それが『お葬式の参列』です。
一番古いお葬式の記憶は、中学生の時にお友達の
お父さんが急に亡くなった時です。
部活の友達みんなで参列しようという話になって、
それを母に言ったら、しばらく考え込んだ後、
「行きたいなら行っても良いけど、お母さんは知らない人だから、お香典は出さないし、お焼香はわかってるわね?」と念を押されました。
「わかった」と答えて、私は手ぶらで友達のお父さんのお葬式に参列しました。
私だけ手ぶらで、気まずさマックスでしたが、中学生が手ぶらなのはだれも気に留めずに
「来てくれてありがとう」と言ってくれました。
お焼香の番になり、お焼香の前まで行ったけど手も合わせず、お辞儀だけして帰りました。
何しに来たんだろう。
ちゃんと「○○ちゃんを見守ってあげて下さい」って言って、お別れしたかったなと
心残りがありました。
その時の後ろめたい何とも言えない居心地の悪さを感じた経験から、
お葬式は出来れば避けたいという意識が働いて、
行かなくてもいい時は全部行かないという、
何とも血も涙もないスタイルで
やり過ごしていたのですが、社会人になってしばらくして、
祖父が亡くなったのです。
田舎までみんなで行った。
親戚一同集まって、母は悲しそうだった。
母の実家ではみんなが集まれる大きい座敷があって、近所の人も駆けつけてくれていた。
お焼香が回ってきた。
母はそのままお焼香を押して、次の人に回していた。
私たちも母に倣って同じようにした。
おじいちゃんとお別れしたかった。
あまり会ったこともないけど、出掛けた思い出も
ないけど、私たちのことはいつも気にかけてくれていた。
亡くなった人をお葬式できちんと見送ることと、
お別れすることはその後、
その人がいない世界で自分が生きていく為に必要だと思うのだ。そこをきちんとやって来られなかったので、全く泣けなかった。
お別れがぼんやりしてしまう。
母が変な宗教に入っているのはこの田舎ではみんな知っているのでしょう。
みんな見て見ぬふりをしていた。
自分の親の葬式でもお焼香をしないから、
白い目で見られていたと思う。
私は宗教を反対しているわけではない。
信じる者があって、それで幸せになれているなら自由だと思う。
でも「信じる自由」があるなら「信じない自由」を尊重すべきだと思う。
それだけなのだ。
でも母はその自由を一切私たちに与えなかった。
その後、結婚した後に祖母が亡くなった。
結婚してからは、母ももう私たちを手放したようで、何も言わなくなり、私は大好きだった
「おばあちゃん」と
ちゃんとお別れした。
「ありがとう」と「さようなら」がちゃんと出来たので、心残りはない。
それからは、もう母に囚われることなく「お別れ」が出来るようになった。
娘が飼っていたハムスターが死んでしまった時も、
いつもは人前では全く泣かないのに、
誰よりも先に大号泣して、
家族をドン引きさせてしまった。
ただ悲しみの感情を閉じ込めていただけだったのだ。
ハムスターともちゃんとお別れして、
お墓に連れて行けて、
そこでも大号泣したけど、何も後悔することはなかった。
「寂しいけど、幸せをありがとう」の気持ちだけ残った。みんなこうしていたんだなと思った。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
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